うみがめ波瀾万丈・少年編A
楽しい年賀状づくり(2007.12.28)
年の瀬の楽しみの一つといえば、年賀状づくりではないでしょうか。
そもそも、私が年賀状というものを人に出すようになったのは小学1年の頃でした。
同じクラスの子や担任の先生、親類の子などに出したのですが、この時は、「1年の学習」の付録についていた「版画セット」なるものを使いました。
版画といっても、葉書大の紙に絵を型抜きし、その上からインクのついたローラーを転がすという単純なものでした。
私が小2の頃、父は数多くの年賀状をさばくのに印刷屋に頼むより安く済ませたいと考え、家庭用ガリ版印刷機「マイプリンター」を購入しました。
ガリ版と言っても、実際にはボールペンで原紙に絵や文章をかくという簡単なもので、家族全員がそれぞれに考えた文面を刷ることも出来ました。
小4の頃、学校で彫刻刀を使った版画を習うと早速それを使ってみたくなり、この年はマイプリンターと版画を併用しました。
家庭用印刷機と言えば「プリントゴッコ」も有名ですが、我が家がこれを仕入れたのは確か私が大学在学中だった頃でした。マイプリンターでは基本的に単色印刷しかできず、多色刷りが簡単に出来るプリントゴッコの導入はある意味時代の流れだったかもしれません。
この頃は私も年賀状を出す数が一時に比べ激減していました。
無理もありません。大学の同級生なら冬休み明けにまた顔を合わせることになるため、無理して年賀状を出す必要性を感じなくなっていたのでした。
それでも、かつての恩師やごく親しかった友人数名には継続して出していたので、その分だけ実家で刷られた葉書を使っていたのです。
仕事をするようになってから、また年賀状を出す枚数が増えてきました。
仕事上の付き合いで出す人が増えたのです。
結婚してからは更に親類にも直接年賀状を出すようになりました。
就職してしばらくは印刷屋に頼んでいましたが、自宅にパソコンが入った2006年からは、PCで文面を作成し、プリンターで両面とも刷るという方法をとるようになりました。とはいえその年は喪中欠礼でしたが。
年賀状を出すという習慣は、やはり年始に当たってのけじめだと思います。
ライダースナック騒動(2006.11.24)
朝ドラ「芋たこなんきん」に、こんなエピソードがありました。
ある雑誌が、子供達に人気の特撮ヒーローの関連商品が当たるプレゼントを企画、すると応募はがきだけ切り取り、雑誌本体は読まずに捨ててしまう子供が続出する。
近所の子供が雑誌を捨てるところを目撃したヒロインは、「物を粗末にしてはいけない」と、その子を叱りつける。
やがてこれが大きな社会問題となり、出版社は、プレゼント企画中止に追い込まれる。
これを観ていて、子供の頃似たような騒動があったなあ、と思い出しました。
ただし、騒動の主役は雑誌ではなくスナック菓子でした。
丁度私が小学1〜2年の頃、「仮面ライダースナック」がブームになっていました。厳密には、おまけとしてついてくるカードを集めるのがブームでした。しかもカードの中には、カードアルバムの当たる「ラッキーカード」が混じってて、それ欲しさに一人で何十個と買い占める子もいたほどです。
やがて、「カードさえ手に入ればあとはいらない」と考える子が出てきて、せっかく買ったスナックが未開封の状態で捨てられる、という事例が各地で報告されます。私も、未開封のライダースナックが下水溝に捨てられているのを見たり、あるいは通りすがりの見知らぬ子から「これあげるよ」とスナックを3袋差し出されたりしたことがあります。
当時からマイペースで、簡単に流行に乗らないところのあった私は、カード集めに熱中することもありませんでした。差し出されたスナック(無論カードなし)も、家に持ち帰って食べました。
味については、あまりおいしくないという子もいたそうですが、私は、ほんのり甘味がついていて結構いける、と思いました。それこそ、コーンフレークのように牛乳に浸せば、ちょっとした主食代わりになりそうな感じでした。(実際にそのような食べ方はしていない)
同じ会社の主力商品「かっぱえびせん」の塩味とは好対照でした。
結局ライダースナックは、私が小3の頃に製造中止となりましたが、おまけ(カード)欲しさに本体(スナック)を捨てることが社会問題となった責任もさることながら、やはりキャラクター頼みの商品は流行り廃りが激しい、という事情もあったのでしょう。
今思えば、その後の「飽食の時代」を予見させるような騒動でした。
珍メダル(2008.08.14)
「のぶちゃんねる」の「ナンバー1でなければダメなのか?」の関連記事
丁度ミュンヘンでオリンピックが開催された小学2年の頃、同級生と「オリンピックごっこ」をして遊んでいました。
かけっこ、レスリングもどきの取っ組み合い、ボクシングもどきの殴り合いなどで競い合ったのですが、その時のルールには、実際のオリンピックにはないものがありました。
名付けて「珍メダル」。
上位3人に贈られる金・銀・銅のメダルとは別に、最下位の人に贈られるメダルのことです。
「誰も好き好んでビリになる訳ではない。ビリの子だってそれなりに頑張ったのだから、それを称えるメダルがあってもいいじゃないか」、そんな発想で出来たルールです。
でも、オリンピックごっこに参加した子の中で、実はこの私が一番運動能力がなく、珍メダルという独自ルールは、私のために作られたようなものでした。orz
「参加することに意義がある」とはそういうことです。
その一方で、「出るからには勝たなければいけない」と、自らの身体能力の限界に挑戦する姿勢も、人々に感動を与えます。
「より速く・より高く・より強く」を目指し飽く無き挑戦を続ける、それもまたオリンピックの醍醐味です。
とはいえ、近年露骨なメダル至上主義がはびこっていると考えてしまうのは私だけでしょうか?
メディアはメダルラッシュを煽るだけ煽り、人々の中にも「ただただ、自分の国の選手が勝ちさえすればよい」と言う偏狭な考えがはびこり、選手の側もその期待に応えようと無理をしている、そんな風に感じてしまうのです。
マラソンの野口選手が直前になって欠場を決めたのは残念ですが、彼女もまた勝ちに拘るあまり必要以上に肉体を酷使し、このような結果になったのだから、ある意味メダル至上主義の犠牲者と言えるのではないでしょうか?
そう思っていたら、こんなブログ記事を見かけました。
柔道の谷亮子選手が金メダルを逃してしまった。テレビでは繰り返し敗退した試合をすべての放送局で放送していた。金メダルじゃないけど、銅メダルを獲得した谷選手には笑顔が無かった。
全くその通りだと思います。金メダルを目指してやって来ている選手にとっては金を逃すことは大きなショックだろうと思う。一方で常にトップでいられるわけではないという現実も選手たちは知ることになるのだろう。
だけど谷選手に限っては今回代表に選ばれたことも疑問符が付く。多くのスポンサーやCMの契約もあるし、柔道界の広告塔としてもネームバリューもあるし過去の実績もあるだろう。でも代表選出の過程はあまりにも不可解だった。負けても代表に選ばれるなら、最初から「谷ありき」で選んだのであれば代表を選出する大会は全く無意味になってしまう。
「過去の実績で」とは言うけど「今最強」で選ばないと代表としてふさわしくないと思う。
さて、私自身はスポーツでもナンバー1の選手が好きとは限らない。金メダルでなくてもチャンピオンじゃなくても魅力的な選手はたくさんいる。
金メダルを取ることも大事だろうけど、それ以上に頑張る姿に共感を覚えたり感動することが多い。
テレビや新聞を含めたマスコミは「メダル獲得予想」などしているけど、何だか滑稽に見えてしまう。それらは獲得予想として多めに獲得予想をするのだけど、終わってみれば予想以下と言うのがほとんどだ。
銅、銀、金。そりゃあ金が一番いいのだろうけど、そこに到達しなくても頑張った姿を称えてあげて欲しい。
もし現実に珍メダルのルールがオリンピックに取り入れられたら、露骨なメダル至上主義も改まるのではないかと思うのですが…
社会見学 (2007.11.08)
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その社会見学とはなんぞやと言う話です。手っ取り早く言えば、遠足の目的地が公園であるのに対し、工場や動植物園など様々な施設を目的地とし、そこで働く人の様子を見学すると言う趣旨で行われる学校行事です。
私が通っていた東京の小学校では、秋の遠足に代えて毎年行われていました。
1年の時どこに行ったかは忘れましたが、2年の時は確か多摩動物公園に行きました。
3年の時は、大田区内見学と称して、大田市場→萩中公園(昼食)→羽田空港(他にも回っていたかもしれないが)を回るコースでした。
あと、卒業までその小学校に通っていた兄に依れば、4年は都内見学、5・6年はお隣神奈川県の施設を見学というコースだったそうです。
釧路の小学校にはそうした行事はありませんでした。 施設見学なら修学旅行のときにしていたのもその理由かもしれません。
と思っていたら、実は「校外学習」と称して、釧路市青少年科学館に出向いた事を思い出しました。 そこではプラネタリウムや、化学実験など普段学校では出来ない授業を楽しみました。
ただ、建物の古さを多少感じました。
その後調べた所、青少年科学館は建物の老朽化が進んだ事から2005年1月に閉館し、同年7月オープンした釧路市こども遊学館がその後継施設となったそうです。
今から30年ほど前の時点で古さを感じていたのですが、施設自体は結構長持ちしていたんですね。
あと、釧路時代は学校のすぐ近くにあった製紙工場も見学しましたし、大学時代は法学の授業の一環として刑務所、衛生学実習の一環として浄水場に見学に行ったことも覚えています。
学芸会を侮るなかれ(2007.11.20)
私が通っていた小学校では、例年11月ごろに学芸会というものが行われていました。
東京の小学校では隔年開催で、プログラムも低学年(1〜3年)と高学年(4〜6年)で分かれていました。
一方釧路の小学校では毎年開催で、プログラムは共通のものを午前中は低学年、午後は高学年を前に演じるというものでした。
1年の時は、学年全体を3つに分け、それぞれ合唱・器楽合奏・劇をやりました。
このうち私は劇の班でしたが、「こぶとりじいさん」の鬼の役、しかも何人かいる鬼役は全員お面をつけており、誰が誰だかわからない状態でした。
劇は数人の読み手がストーリーを読み上げる構成で、舞台上の演者には一切台詞はありませんでした。
3年の時は合唱と劇とに分かれ、この時も私は劇のほうでした。
この時もその他大勢の役、台詞も一言だけでしたが、ただ出てるだけの1年の時よりは進歩でした。
4年の時は、各クラスから5人程度を選抜しての劇のみで、私もその中の一人でした。
出演者を絞り込んだためか、3年の時より台詞も増えました。[:ワーイ:]
5年の時は、ほぼ学年全体での合唱と、各クラスから2名ずつ選ばれての遊戯でした。
遊戯に参加できたのは女子のみ、だからこの年私は合唱に加わりました。
6年の時は合唱と劇とに分かれ、私は懲りずに劇のほうでしたが、この年は結局不参加に終わりました。
本番数日前、ふざけっこをしていて、その拍子に階段を飛び降りた私は着地に失敗し、右足首を捻挫してしまったのです。orz
だからこの年は、自宅静養を命ぜられ本番も観ていません。
主役を張るような子はやはり大人顔負けの演技力があります。実際に、学芸会での演技を認められて自信をつけ、役者を生業にした人も少なくありません。
世間で言う「学芸会レベル」の子は、やはり本当の学芸会でもチョイ役しか与えられません。
憧れのおぱーい (2007.02.07)
世の男性にとって、いや女性にとっても、女性の乳房は永遠の憧れではないか、と思います。
誰もが赤ちゃんの頃お世話になった、あのやわらかく温かい感触、それは大人になっても忘れられません。
それはこの私とて例外ではありません。
だからでしょうか、今でも女性と向き合うと、胸の辺りについ惹かれて見てしまうのです。
とはいえ、子供の頃の私にとって乳房は女性の象徴というよりも母性の象徴でした。
私が幼稚園に通っていた頃、一度母の末妹に当たる叔母と一緒にお風呂に入った事があるのですが、その胸はぺったんこだった記憶があります。
当時この叔母は結婚前で、当然子供もいませんでした。だから当時の私は、「女の人は、子供が出来てからおっぱいが膨らむものだ」と思い込んでいたのです。
今思えば、母方は貧乳の家系だった事も影響していたのでしょうが。
その考えが改まったのは、私が小学2年の頃です。
その年の夏休みに包茎手術を受けた私は、その影響か、周りの子より早く性に目覚めてしまったようです。
兄(当時小6)とは同級生だったお姉さんが家に遊びに来た時のことです。
そのお姉さんは、その年にしてはかなり豊かなバストの持ち主でした。
私は彼女に向かって思わずこう口走りました。
「お姉ちゃん、おっぱい触らせて!」
勿論拒否されました。
しかし、このお姉さんとの出会いで「女の人は、大体中学に進む前後でおっぱいが膨らむものだ」(所謂二次性徴)ということに気付きました。
そして、どうやら巨乳願望にも目覚めたようです。
それからの私は「ボイン」という言葉に異様に反応するようになったり、豊かなバストの持ち主(榊原郁恵・河合奈保子…)が何故か気になったり、そんな少年時代を過ごしました。
それが高じたのでしょう、今の妻も巨乳です。
因みに写真は、兄嫁(例のお姉さんとは別人)が甥に授乳している所をとらえたものです。
はだかんぼう(2008.03.29)
ある方のログでキリ番近くの数字、つまりニアピンを踏んだのですが、その記念としてこんな美尻画像を頂きました。[:ワーイ:]
それで、ふとこんなことを考えました。
「女の子の裸を間近で見たのはいつが最後だったろう」
勿論、母や妻は含みません。あれは女の人ですから。
小学校の頃、低学年では確か月に一度、3年以上では年に一度、身体検査というのをしていました。
今は多少やり方も変わっているでしょうが、私が子供の頃は全員裸、しかも男女同じ場所でしていました。
身長はともかく、体重は服を着た状態ではその分重くなるからです。
さすがに5年以上は男女別でしたが。
でも当時の私は、同じクラスの女の子の裸を目の当たりにしても、別に何とも思いませんでした。
そりゃそうでしょう、地域によっては耐寒マラソンや乾布摩擦などを授業に取り入れている小学校もあり、その時も男女を問わず裸になりますから、小学校低学年までは女の子も人前で脱ぐことにそれほど抵抗はないはずです。
そういえば、私の従妹も、夏場家にいる時は大概裸でした。(3〜6歳当時)
香川県の夏は比較的乾燥した気候で、服を着なくても快適に過ごせるのです。
さすがに二次性徴が現れる頃には、女の子が裸になることは本人の恥じらいと共に、周囲もはしたないものと捉えるようになります。ただこれも個人差で、「成人するまで父親と風呂に入っていた」という女性もいる位です。
あと傾向としては、弟のいる姉は家でも比較的オープンだが、兄のいる妹は特に恥じらいが強いのだそうです。ただ、確信は持てません。
何せ私は男兄弟の中で育ちましたから。
性に目覚めてからは、写真や映像でヌードを見る事はあっても、間近で見る機会にはなかなか恵まれませんでした。 まあ、社会に出てから所謂風俗と関わったことは何度かありましたが。
これにはこんな母の戒めも影響していたかもしれません。
「一時の欲望に駆られて肉体関係を結んではいけない。それで傷つくのは女性だ」
小2で脚本家デビュー?(2008.03.21)
小中学校のお楽しみ会は、大概学期末に行われます。
殊に2年毎にクラス換えをしていた東京の小学校では、2年生と4年生の終わりに、年度末で転校する子の送別と今のクラスとのお別れとを兼ねたお楽しみ会を開いていました。
小3の途中で転校した私は、従って2年のお楽しみ会しか経験がありません。
その最大の呼び物として企画されたのが劇でした。
クラスで話し合った結果、演目は「クラゲのお使い」と決まりました。
「クラゲ骨なし」とも言われるこのお話、おおよそのあらすじは以下の通りです。
竜宮城の乙姫が病気になり、その特効薬である「猿の生き肝」を取りに行くのに、クラゲが使いを命ぜられる。猿が住む島から何とかおびき寄せたまでは良かったが、クラゲが「生き肝をもらいに来た」とつい本当のことを口走ってしまう。すると猿は「それなら木の上に忘れてきた」と言い、島に戻った隙に逃げてしまう。生き肝取りに失敗したクラゲは竜王の怒りに触れ、打たれ骨まで抜かれてしまう。クラゲが骨もなく海中を浮かんでいるのはそのためだ。
で、役柄を決めるに当たって、何故かこの私が脚本を手掛けることになりました。
早速手元にあった「日本昔話集」の絵本を参考に書き始めましたが、どうしても話を膨らませることが出来ません。
すると母が、「本屋に行ったら、このお話の元となった話の本があったから見てみれば?」と言いました。
早速本屋に行き、母に言われた「今昔物語集(口語訳)」を購入しました。
しかし、そこに出ていたのは似ているようで少し違うお話でした。
題して「猿の生き肝」、竜王の使いで生き肝を取りに行くのはクラゲではなく亀でした。
しかもこの亀、最後には竜王に背中を打たれ甲羅がひび割れてしまう(亀甲模様の起こり)という結末でした。
同じような昔話でも違う伝わり方もあるものだな、と感心しました。
でも劇の主役はあくまでもクラゲ、そこでこの「猿…」に出てくる亀をクラゲに置き換えて、更に話を膨らませました。
そしてお楽しみ会当日、脚本を手掛けた私自身も亀のくせに猿の役で出演しました。
評判は良かったように思います。
しかし、私が劇の脚本を手掛けたのはこの時だけでした。
小学5・6年のキャンプでの劇で脚本を手掛けたのはクラスのまとめ役だった子、高2の学園祭での劇で脚本を手掛けたのは私以上に文才のある生徒でした。
それにこの時も、表向き私が書いたことになっていますが、実は母の手助けがあったからこそ形になったのでした。
クラス替え (2009.04.06)
学校生活の中で新年度最大のイベントと言えば、入学式もそうですが、在校生にとっては何と言ってもクラス替えではないでしょうか。
プロフィールでも触れた通り、私は各地の学校を転々としましたが、クラス替えに対するスタンスも学校によって異なりました。
東京の小学校では2年毎にクラス替えをしていました。
従って3年の途中で転校した私は1回しか経験していませんが、その小学校に入学から卒業まで在籍した兄は2回経験しています。
函館の中学校や高校では毎年クラス替えがありました。
こんな風にクラス替えを頻繁に行うことは、生徒にとってはそれだけ新しい出会いの機会が増える反面、せっかく仲良くなった友達との別れの機会も増やしてしまう側面もあります。教師にとっても生徒一人一人の個性がようやく解りかけたころにクラス替えという場合が多く、この方法が一概にいいとはいえないように思います。
これとは逆に、釧路の学校はクラス替えが少ない傾向にあったようです。
私が3年の3学期から4年の1学期までいた小学校は、丁度この間に新設校への分割に伴い大掛かりなクラス替えが行われたのですが、その後転校した学校では私が在籍していた間、クラス替えは一度も行われませんでした。しかもクラス担任もずっと持ち上がりでした。
これだと確かに、教師も生徒もお互いの長所短所を十分に理解しあえ、クラスの結束が固められるというメリットがある反面、ともすれば閉鎖的・排他的な集団生活となりかねないデメリットもあるように思います。
結局クラス替えは、頻繁にする場合もめったにしない場合も一長一短、どちらになるかはその地域の特性にも影響しているように思います。
私個人としては、出会いの機会の多い前者が理想と思うのですが、皆さんはどうですか?
人情に触れたクリスマス(2006.12.14)
あれは小学3年の時のことです。当時は東京に住んでいました。
やはり東京に住んでいた親類の家でのクリスマスパーティーに招かれたのですが、そこからの帰りに事件は起きました。
親類の家から最寄の駅まではバスを使ったのですが、そのバスは満員状態だった上に、道路も少し動いては止まるような渋滞でした。しかも車内には暖房が効いています。
そのような中で、私は急に気分が悪くなり、親類の家でご馳走になった食事やケーキを嘔吐しました。
突然の事に、一緒にいた母はうろたえ、それでも吐物を始末しようとティッシュを取り出しましたが、それでは足りません。
すると、見かねた他の乗客達が、ティッシュやハンカチ、更には吐物を入れる袋まで貸してくれたのでした。
この頃から既に世知辛いなどと言われていた東京にも、こんな風に人の情けが残っていたのだな、と母も私も感激しました。
ただこれ以上他の乗客に迷惑はかけられないと、結局駅前バスターミナルの一つ手前の停留所で下車しました。
子供の頃のクリスマスの思い出として、どんなプレゼントをもらったことよりも強烈に残っています。