うみがめ波瀾万丈・少年編@


東京生活9年余り(2006.10.05)

私が東京に住んでいたのは生後4ヶ月過ぎから小学3年の3学期が始まってすぐの頃(具体的には1月12日)まででした。

出生地である香川県から東京までは、当初開業したばかりだった新幹線を利用するつもりでしたが、人気が高く切符を取ることが出来ませんでした。仕方なしに飛行機を利用したとのことです。

余談になりますが、1964年は羽田空港と都心を結ぶ東京モノレールが開業した年でもあります。だから、どの道新しい物を利用したこと…にはなりません。

当時我が家があったのは、大田区糀谷(こうじや)、羽田からは京急線で直行できる所でした。糀谷の家は一間限りのアパート、一家四人(両親・兄・私)で住むには狭すぎました。そこで、66(S41)年の2月に大田区下丸子(しもまるこ)の借家に転居しました。だから、私が物心ついたときには既に下丸子にいた訳です。

この借家もはっきり言って古い建物でした。日当たりの悪い奥まった場所に建っており、昼でも室内には照明が必需品でした。夜は雨戸を閉めねばならず、浴室は離れにあり、台所には段差がある、といった有様でした。まあ、部屋数は4つあっただけましでしたが。

下丸子の町は、近くに町工場が建ち並ぶ下町の風情のある町でした。少し歩けば多摩川が流れており、そこは絶好の散歩コースでした。川にかかる鉄橋を通過する列車を眺めるだけでも満足でした。

そうした環境で私は幼少期をすごしました。


初めての集団生活(2007.04.04)

就学前の児童が初めて集団生活を送る場として、幼稚園保育所があります。

両者はよく混同されますが、前者は文部科学省所轄の教育機関、後者は厚生労働省所轄の児童福祉施設、とその性格は全く違います。

どちらの世話になるかは地域や家庭の事情によっても異なるでしょうが、私がお世話になったのは幼稚園のほうでした。

行き始めた頃は、確かに不安もありました。周りは殆んど知らない人ばかりでしたから。中には「お家に帰りたい」と泣いてばかりいる子もいました。

でも、みんなそのうちに慣れて、誰とでも仲良く遊んでいたように思います。

今時は、幼稚園に行く前に出来てなければいけないかもしれませんが、私は字を書くことを幼稚園で習いました。それまでは読めるけど書けない状態だったのです。

箸の持ち方を矯正するきっかけも幼稚園でした。それまで私は握り箸という無作法の極みのような持ち方をしていたのですが、幼稚園で周りの子から「うみがめ君のお箸の持ち方おかしい!」と言われ、そのことを母に話したところ、「じゃあ、お箸の持ち方を変えてごらんなさい」と言われました。本当は母も気にしていたのでしょうが、やはりこういうことは集団生活の中で直していったほうが良いと思っていたのでしょう。

人はやがて死ぬ、ということを教わったのも幼稚園の時でした。

入園当時の園長が、私が年長組に上がって間もなくの5月中旬に亡くなったのです。

園葬が行われたのですが、その席でクラス担任の先生が、「園長先生は、遠いお空の向こうにある天国へと旅立たれていきました。もうみんなと会うことはありません。でも、これからもずっと空の上からみんなの事を見守ってくれることでしょう」と話していたことで、ああ人が死ぬってこういうことなんだな、と子供ながらに理解したのを覚えています。

生きていく上で大切な事は、みんな幼稚園で学んだはず、と誰かが言ってましたが、全くその通りだと思います。


 もしもピアノを続けていたら…(2006.10.09)

子供の頃ピアノを習っていたことがあります。丁度私が幼稚園に入った頃からでした。

兄が習っていた影響もあって、ついでに弟である私にも習わそう、と親は考えたのでしょう。

ピアノの教室は品川にあったことから、自宅のあった下丸子から電車を乗り継いで週に2回程度通っていました。ただ、何分遊びたい盛り、しかも本来反復練習という物を好まない性格からか、余り上達しませんでした。

結局、バイエル教本の3分の2程度が進んだところで東京を離れることとなりました。自宅練習用に購入したピアノをそのまま転居先まで運んでもよかったのですが、又何時引っ越さなければならなくなるかわからないので、親の実家に預けることにしました。 こうして、小学3年の冬で私のピアノレッスンは中断する形となりました。

例のピアノは、今も親の実家に預けた形ですが、今更取り戻す気にもならないのが正直なところです。

成長ののち母から、息子にピアノを習わせた理由を聞かされ、やめるんじゃなかった、と思うようになりました。

その理由とは、将来パーティー等の席で、隠し芸としてピアノ(などの楽器)が弾けたなら、どんなに素晴らしいか聴くだけの音楽よりも自ら演じる音楽のほうが楽しい筈、というものだったからです。

今なら、文字通り音を楽しむ余裕も出来たでしょうが、何せ子供の頃は音が苦でしかありませんでしたから…


屋根より低いこいのぼり(2007.05.05)

5月5日は端午の節句、写真のような鎧兜やこいのぼり、あるいは武者人形などを飾っているお宅も多いことでしょう。高知あたりでは武者絵が描かれた大きな旗(フラフと言う)を飾ることもあります。

あと、地域によっては何千匹ものこいのぼりが川を横切る形で吊るされている、壮観としか言いようの無い光景に出くわすこともありますね。

勿論、我が家でも私が子供の頃はこうした5月飾りをしていました。鎧兜や武者人形は勿論、こいのぼりも比較的大きいものを飾っていました。

しかし、それが何故か室内に飾られていました

こいのぼりと言えば、大抵屋外にポールを立ててそこに掲揚する文字通り「屋根より高い」ものというイメージがあっただけに、どうしてうちだけ「屋根より低い」のか、子供心に不思議でなりませんでした。そこで親に尋ねたところ、こう言われました。

「晴れた日ばかりならいいが、雨が降ったりしたら水分を含んでしまい、手入れが大変だ。それにうちにはそもそも掲揚台がない

そう言われれば納得するしかありません。

それに大きいこいのぼりが飾れただけまだ幸せなほう、実はこの写真は私の甥(兄の息子)の初節句の時のものですが、マンション住まいとのことで、こいのぼりも卓上サイズになっています。ベランダに大サイズのこいのぼりを下手に出すわけにはいかないからです。


鉄道模型と私、そして兄(2007.05.06)

自分が子供の頃、鉄道模型でよく遊んでいたことを思い出しました。

本格的な鉄道模型が初めて我が家にやってきたのは、私が3歳の頃でした。

丁度兄が小学校に入学した頃で、鉄道好きだった兄の為に父が買い与えたものです。赤地白帯の電車、と言えば首都圏にお住まいの方はピンと来るかと思いますが、京浜急行で走っていた電車のスケールモデルでした。我が家が大田区糀谷に住んでいた頃よく利用していたものです。車輪の幅(トレッド)は16o、所謂HOゲージの模型です。車輪幅9oのNゲージより一回り大きいものです。

それからしばらく、私が小学校に入るまでの間はこうした本式の模型を買う事はありませんでした。というのも、これとは別にうちには「プラレール」というのがあって、私がまだ小さいうちはそれで遊ぶ機会が多かったからです。今でこそプラレールも、かなり本物の質感を出せるようになりましたが、当時は見るからに子供のおもちゃ、むしろ大人の道楽といった感じの鉄道模型と比べれば明らかに見劣りがしました。

私が小学校に上がる頃にプラレールを卒業、ここから本格的に兄も鉄道模型を集め出す事になります。

まず最初に、B型(車軸2本)の電気機関車とこれに連結する貨車を購入、やがて兄は「ただ出来上がった車両を走らせるだけでは面白くない」と考えたのでしょう、組立キットの蒸気機関車を購入します。「プラモデルを作るのとは勝手が違う」と言いながらも、旅客輸送の花形として活躍したC62型(因みにD51は貨物輸送の花形、兄はそのプラモを作ったこともあり)の模型を作り上げました。

更に、これも東京時代よく利用していた京浜東北線などで活躍する水色の電車を購入しました。103系電車といいますが、実はその中古車両は現在インドネシアでも活躍しているのだそうです。

続いて、四国でよく見かけた急行型気動車(58系)を購入します。ただこの頃になると、兄も高校入試を控え、鉄道模型どころではなくなります。

結局は、兄の鉄道模型収集もここまでとなってしまいました。

大学に進学してからも、留年や国試浪人を繰り返した為それどころではなくなったのです。

かつて買い集めた鉄道模型は今も兄の元にありますが、今は仕事のほうが忙しく、兄の鉄道模型趣味は完全に封印された形です。もったいないとは思うのですが…  


私の入院歴(子供時代)(2006.11.14)

子供の頃の私は、病気がちという訳ではなかったものの、しょっちゅう熱を出して幼稚園や小学校を休んでいました。

幸い、命に関わる大病を患ったことも、麻疹(はしか)や風疹、耳下腺炎(おたふくかぜ)や扁桃腺炎といった小児特有の感染症に罹ったことも、記憶の中ではありません。

子供の頃入院したことは、私の記憶の中では2回、しかも何れも3日で退院しています。

1回は、椅子から転げ落ちて頭を床に打ちつけ、しかもそこがたまたま病院だったことから、精密検査のために入院しました。私が幼稚園の確か年少組だった頃です。

精密検査と言っても、当時はまだCTスキャンが導入される前だったから、脳波検査のみでした。結局異常は見つからず、検査終了と同時に退院となりました。

もう1回は、小学2年の夏休みの頃です。

少々恥ずかしいお話ですが、中目黒の共済病院で包茎手術を受けました。

実は当時、私の陰茎は小用を足す度に被った皮の辺りが膨らむ、という状態でした。ここから悪い菌が溜っては大事と心配した親が手術を受けさせたのです。

確か午前中に入院、その日のうちに手術が行われました。大人なら日帰りでも支障ないのでしょうが、相手は子供だから大事を取って2日後退院としたのでしょう。

これにより陰茎の先端は露出、東京にいた頃は誰も何も言わなかったのに、釧路では「お前のちんこ、剥けてやんの」と、からかわれることがしょっちゅうでした。

当時は、剥けていることがいけないことか、と真剣に悩んだこともありました。でも考えてみれば、大人にとっては逆に、被っていることが恥ずかしいのであって、要するに周りは、皆と違う所をからかっていただけだったのです。(異質なものを排除しようとする発想のいじめは絶対許せない!)

言ってみれば、一部の種族で成人の儀式として行われる「割礼」を、この私はわずか8歳で受けたことになります。


脇役あっての主役です(2008.03.05)

私のネット仲間の一人が昼帯ドラマ「安宅家の人々」にチョイ役ながら出演しました。

それを観ていてこう思いました。

どんな主演俳優も、脇役がいなければ引き立たないものだ。それは出番の多寡に関わらない」

彼の出番は週5日、3か月続いたドラマの中のほんの1回、ワンカットのみでしたが、それでもちゃんと主役を引き立てていたように思いました。

それで思い出したのですが、子供の頃こんなことがありました。

丁度3月頃に、私が通っていた幼稚園では「おゆうぎ会」なるものが毎年開かれていました。

大体この手の行事は、クラス全員の顔見世興行のような感じで行われるのですが、そこで幼稚園の先生は知恵を絞りました。

それは、主役以外の子にも一度はスポットライトを当てる、ということでした。

確か一クラス5〜6演目ずつだったと思うのですが、それぞれの演目についてそうしていたのです。

私は年少組の時は「花咲爺さん」をやったのですが、この時は主役のお爺さんの隣に住む欲深なお爺さんの役でした。

つまり、ヒーローに対するアンチヒーローの役だったのです。

勿論与えられた役はしっかりとこなしました

他にも犬・近所の子供達・殿様などの役がいましたが、その誰もが一度はスポットを浴びていたように思いました。

年長組のときは「アリとキリギリス」をやったのですが、アリ役が5人、キリギリス役が3人いた中で、私はキリギリスのほうでした。

この場合はどちらが主役と言う訳でもなかったのですが、どの子にも同じだけの出番を与えていたように思いました。

これが小学校の学芸会の劇では、意味もなく大勢の子を舞台に上げていたように感じました。

正直自分も「こんなのただ出てるだけじゃないか」と思いましたが、そうでもしなければ納得しない親がいるのもまた現実です。

高校の学園祭でも演劇をしましたが、この時は舞台装置・小道具・衣装などの裏方も生徒が務めていたことから、クラス一丸となって演劇を支えているという自覚が生徒一人一人にあった様に感じました。

 
考えてみれば、私達が暮らすこの社会も、色々な役割の人がいて始めて回っているのです。

皆が安定した将来を得ようと努力するのですが、でも世の中がエリート官僚ばかりになってしまっては社会は回っていきません

それを底辺で支える肉体労働者がいるからこそ、社会が回っていくのです。

学芸会とは本来、そんな社会の縮図を学ばせる為の行事であるはずです。

主役級の俳優を10人並べた所で、いい芝居が出来る訳ではありません。

脇を固める俳優がいるからこそ、主役も引き立つのです。

脇役にも一度はスポットを当てる」のと「みんなを主役にする」のとは似ているようで違います。

後者はそれこそ、運動会における「みんな並んでゴールイン」と同じ悪平等主義の現れに他なりません。


迷子の迷子の子亀ちゃん(2008.05.10)

さっこさんの「迷子」(元記事リンク切れ)の関連記事

長男は 今思いだしても 小さい頃はとても変わった子だった。

よく行く大型スーパーで。。。

よく行くので 勝手にふらふら歩いていても 必ず私たちの所へ戻ってくる長男。

しかし・・

ある日。。。。

店内放送で

「長男君のおとうさま・おかあさま 長男君がサービスセンターで お待ちになっています」

え?どこいったんだあ〜?!

と初めて気づく親も親(^_^;)

「これって迷子?!」

お店の人に声をかけられて 連れて行かれたのかと思っていたら

自分で サービスセンターへ行って

「お父さんとお母さんがいません」 と申告(^_^;)

4歳になったばかりの事でした。。。。

これを読んでいて、そういえば自分が子供だった頃もしょっちゅう迷子になっていたな、と思い出しました。

6歳の頃、大阪万博に行ったのですが、その時も広い会場で両親とはぐれてしまい、近くを通り掛かった係員によって「迷子ワッペン」を貼り付けられたのを覚えています。

当時の写真を見ると、そこにはワッペンのついた状態で写る自分の姿があります。[:汗:]

8歳の頃、池袋にあるカメラ量販店に出かけた際も、途中で父や兄とはぐれてしまい、駅の改札の前で泣いていたところを発見された、ということがありました。

実はその前の年、2代目のカセットレコーダーを買いに確か秋葉原に行った時も似たようなことがありました。

ただ何れのときもその場では迷子という意識はなく、「連れの家族がいなくなった」という意識でしかありませんでした。

案外迷子になる子の心境とはそんなものかもしれません。


入学式の思い出(2007.04.07)

私の人生の中で最も印象に残っている入学式はいつだろう、と入学式シーズンにふと考えました。

小学校の時は東京にいたから、桜の花が咲く下での入学式でした。

新しい環境には確かに不安もありました。でもクラスの半分は幼稚園の頃から一緒だった子でしたから、その意味では安心でした。勿論、それまで知らなかった子ともやがて仲良くなっていきました。

中学校の時は函館にいたから、雪解けの中での入学式でした。

その年の1月に函館に来た事から、周りは全く知らない人ばかりということはありませんでしたが、何せ1学年10クラス、同じ小学校から来た子はクラスに3人しかいませんでした。その小学校は1学年3クラス、しかも同じ中学に進んだのはそのうちの半分程度でしたから、こうなるのも無理はありません。

高校の時も函館でした。兄の時は単身乗り込んだ形でしたが、私の場合は同じ中学からも大勢来ていたから、その意味では安心でした。

周囲は男ばかりという環境も、最初は戸惑いましたが、やがて慣れました。

大学の時は高知にいたから、やはり桜の花の下での入学式でした。

受験の時、同室だった人と再会できた話は後ほど触れますが、大学の入学式のそれまでとの違いは、入学生の年齢にばらつきがある、ということです。

一旦は社会に出たものの、その後一念発起して医学部に入り直した人が、その年だけで10人はいました。

入学生の比率も、今でこそ半々程度ですが、この頃はと圧倒的に男性が多かったのです。まあ、男社会には高校の3年間で慣れっこでしたが。

そう考えれば、自分にとっては大学の入学式が最も印象深いかな、と思います。 一番記憶に新しい事もありましょうが。

貴方にとって、一番印象深い入学式はいつですか?


遠足の思い出(2007.06.04)

学校行事としての春の遠足は、大体5月の連休明けから6月の頭にかけて行われますね。

ところで、皆さんは遠足と言うと、目的地まではどうやって向うイメージがありますか?

今時は電車バスを利用する事も多いでしょうが、私の中では、春の遠足と言えば自分の足で歩くというイメージがあるのです。

でも幼稚園の頃はさすがに春も秋も乗り物を使いましたし、東京の小学校では「遠足」と言えば乗り物を使うもの、徒歩遠足は別に「歩こう会」と称してやはり春と秋にやっていた記憶があります。東京にいた頃の私にとって、遠足とはやはり乗り物を使うイメージでした

ことに団体貸切電車を仕立てて、横浜市郊外の「こどもの国」に行ったのが懐かしく思い出されます。

その認識が改まったのは北海道に来てからでした。

釧路の小学校では、春の遠足は徒歩秋の遠足で乗り物を使う、とその性格が分かれていたのです。

そもそも、「遠足」という言葉は本来、くにを使って出かけることを言うのであって、その意味で考えれば徒歩遠足が言葉本来の意味を表していると言えます。

函館の中学校では、春の遠足は特に「炊事遠足」と呼ばれ、いくつかのグループごとに自分達で食材を調達し、それを調理すると言う特徴がありました。とはいえ、多くのグループでは北海道のアウトドア料理の定番・ジンギスカンを作っていたようですが…

目的地は函館市内に注ぎ込む松倉川の上流域、行きは食材や調理器具などを抱えており、歩くだけでも結構きつかったですが、その分帰りは荷物も多少軽くなる訳です。

高校時代の春の遠足は、中学までのそれと比べ、かなりハードだったのですが、それはまた別の話。


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