一期一会��


ドロップアウト (2008.04.25)

各界の著名人について、その経歴を見ているとたまに「○○高校中退」「××大学中退」という文字を見かけます。

そもそも人間の価値など学歴のみで決まるはずも無いのですが、この手の人は大概学歴よりも実力が重視される社会で生きる人が多いように思います。

一方私の通っていた大学では、中退者は年に2〜3人いるかいないかで、「他にやりたいことが見つかった」という理由で辞める例が極端に少なかったように記憶しています。

私の1年先輩に当たる学生の中に、美術など芸術の分野に傾倒した人がいたのですが、彼くらいのものでしょうか。

他の中退者は、気がついたら辞めていたという、いわば医学部教育からドロップアウトした感じの人が多いです。何人か例を挙げてみます。

�,修凌佑六笋茲�2年先輩で、周囲の期待を一身に受けて医学部に進学したといいます。

ただ教養課程から何科目かでつまづき、結果2度留年しました。3年時に解剖学の夏季補習に引っ掛かり、最初のうちは真面目に受けていたものの、3日目の途中で突然教室からいなくなりました。

きっと周囲からの有形無形のプレッシャーに押しつぶされそうになり、補習を受けることに耐え切れなくなったのでしょう。

その後の彼の消息は不明です。

�△修凌佑�私と同じ年に入学した人で、実は通っていた高校に順応できずに中退した過去を持つ人でした。

その後大学受験資格検定に通って、ある私立大学の2部に入学したのですが、そこも間もなくで中退、だから高知医大は自分にとって3度目の正直だ、と話していました。

しかし結局は、2度あることは3度あるになってしまいました。

彼の場合は1年から進級できないまま、気がついたら学籍から消えていました。

��その人は私より1年先輩で、2度目の留年が決まった時に自主退学したのですが、その後彼の名前を意外な形で目にすることになります。

公衆電話を揺すってそこから小銭を取り出したとして、窃盗容疑で逮捕されたのです。

これが医学生崩れのなれの果てか、とあきれたのを覚えています。

他にも、卒業を目前にして自宅で焼死した学生もいましたが、彼などは医学部どころか人生からもドロップアウトする形となりました。[:泣き:]

でも何故医学生崩ればかりがこうした末路を辿ってしまうのでしょう?

思うにそれは、医者崩れほど役に立たぬものは無いという世間の思い込みもあるのかもしれません。

まして国立大の学生は、私立なら莫大な金額になる学費・研究費の一部が国の税金から賄われていることから、卒業までに何年もかかっているような学生はそれだけで税金の無駄遣い、という偏見もあるのでしょう。

だから私のように、医学部を卒業するのに何年もかかった人は、それだけ社会に大きなツケを背負っていると言えるでしょう。

でも決してドロップアウトしなかったことはよかった、と思います。


強化月間を嘲笑った男 (2008.06.06)

KOJIさんの「『カッコイイ』の価値観」の関連記事

この記事を読んでいて、私とは中3当時同じクラスだったある男のことを思い出しました。

彼は前期学級委員で、この私を後期学級委員に仕立て上げた張本人でした。

丁度6月頃だったでしょうか、私達が通う中学では、「学習習慣確立強化月間」と称して、授業態度をきちんとしようなどのスローガンを掲げた運動がなされていました。

でもこの「強化月間」というのが曲者です。

少々穿った見方をすれば、「じゃあ、他11か月は授業中だらけていてもいい訳だね?」と解釈できるのです。(以下元記事より引用)

本来そういうものは、 強化されたり、その日だからするという事ではなく、 心の問題で常に思ったり、感じたりしなければならない事で、 何かのマニュアルのように 行動するものではないはずだからです。

何か特別な日や月間を設けて、 その間行動してる事で何かを成し遂げたような気になる 心の無い一種のパフォーマンスにウンザリです。

彼もきっとそう思ったのでしょう、「学習習慣…」なんてチャンチャラおかしいや、それなら自分たちは一年中だらけた習慣をつけてやるぜ、とばかりに「堕落習慣確立強化年間」を提唱したのでした。(元々生真面目な私は乗りませんでしたが)

いや、もしかしたらそこまで深くは考えずに、単に「強化月間」を笑い飛ばしていただけかもしれません。

とはいえ「堕落習慣…」を提唱することで、大人社会の権威を痛烈に皮肉ったのですから、今にして思えば彼のとった行動は大胆不敵だったのではないでしょうか。 元記事にはこんなことも書いてありました。

意識してなくても自然と身に付く教育。

何気なく流れてるTVの番組や大人の行動など。

それら全てが教育の材料です。

教えなくても大人の行動を自然と見て育つ。

それも教育です。

いろんな環境から、 悪い事は格好良い事だという事を 大人が無意識に教えてるわけで、 それで育った子供は大人になっても、 それが格好良いと感じるわけです。

きっと彼は、強化月間を押し付けようとした教師達に「じゃあ、先生方はちゃんとした大人だと胸張って言えますか?」という挑戦状を叩きつけようとしたのかもしれません。

これも、思春期特有の反抗心の現れと言われればそれまでですが。


時代を先取りした人々(2008.10.29)

(上記記事に関連して)

今でこそ、中学や高校の家庭科は男女共修となっていますが、かつて高校では女子のみ必修、技術・家庭と称する中学レベルでも男子は木工や機械など、女子は調理や裁縫などと全く別々の授業が行われていました。

それを念頭において、今回のお話です。

小中学校では課外の部活動とは別に、正課の授業に組み込まれた必修クラブがありますが、その中でも家庭科クラブといえば大概女子が入るものというのが常識でした。

しかし私が中3の頃、その常識に敢然と立ち向かった男子生徒がいました。

彼こそ、「堕落習慣確立強化年間」を提唱した男でした。

彼が友人2人と共に家庭科クラブに入ると知った私はびっくりしましたが、当時の担任の先生は彼等の勇気ある行動をむしろ褒めていました。

曰く、「世界的に有名な料理人は大概男だ。それに、テーラーに行けば男性店員が背広を縫っている。それなのに、中学では調理も裁縫も女子にしか教えない。おかしいじゃないか。彼等は、いずれ来るであろう男子も家庭科を習う時代を先取りしたんだ」

その先生の言葉通り、中学の技家科は平成3年度(1991)から男女共通のカリキュラムとなり、高校家庭科も6年度から男女共修となりました。

そういえば、その年の技術クラブにも1年生の女子数人が入ったそうです。

この頃から女性が工業高校や大学の工学部にも積極的に進出、エンジニアを目指すようになるのですが、その意味で考えれば彼女たちも時代を先取りしていたのでしょう。

しかし当時の私は、彼等をただの変わり者としか見られませんでした。[:汗:]  


馬鹿にしてたのはどっち?(2008.06.07)

中学時代の同級生と言えば、「ねこひと」と呼ばれていた男を忘れることは出来ません。

彼とは中1当時同じクラスでした。始めのうちはお互い特に意識していませんでしたが、確かその年の6月頃、席替えをした日の班ノートにこんなことを書いたことから、一躍クラス中の有名人になりました。

きょうは、あたらしいはんになた。

みんなは、ぼくのことをはかにしている。

原文のまま再現しましたが、赤字で書いた所は勿論「なった」と「ばか」のことです。

このように、ねこひとには少々頭の弱い所があり、それが仇名の通り猫に似た外見とも相まって、みんなからはかにされていたのでした。

それはこの私も例外ではありませんでした。

特に私の場合、どうしても周囲からは「あいつからかえば面白えや」と思われていたせいか、とりわけ図体のでかい奴にしょっちゅう絡まれていました。でも絡まれたほうは面白くないから、更に弱い者として、ついねこひとに絡んでしまうのでした。

ひょっとしたら、私は彼に対しある種の優越感に浸ろうと思っていたのかもしれません。

つまり、「あいつは自分と比べて全てに劣る」と思っていた節があるのです。

しかし、そもそも自分は父親が一所懸命に尻を叩いたお陰で、誰もが羨むような高校や大学に入れたところがあり、それがなかったらきっとねこひとと同類項だったに違いありません。

恐らくは向こうもそれを見透かしていたのでしょう、実は彼のほうこそ余計に私をはかにしていたのではないか、今にしてふとそう思うことがあります。[:汗:]

彼は中学卒業後、調理師学校に進んだそうですが、これは父親を早くに亡くした(彼が中二の時)ことから、早く自活できるようにと考えてのことでしょう。

一方私は、せっかく大学に進学しても、卒業までに長くかかってしまい、結果的に親に迷惑ばかりかけてしまいました。

もし今彼と再会したら、きっとそのことでもはかにしてくるに違いありません。[:アセアセ:]


群れたガール(2008.07.04)

「女の子って、どうして気の合うもの同士で群れたがるのだろう?」

皆さんは、こんな素朴なことを疑問に思ったことはありませんか?

私がそう思うようになったきっかけは、釧路の小学校の同級生[:男の子:]から頂いた手紙でした。

卒業を前にして釧路から函館に転校した私の元に、その手紙が届いたのは小学校を卒業する直前の頃でした。

手紙には、「どうか釧路で一緒だったみんなの事も忘れないでね」というメッセージを込めたのでしょうか、当時同じクラスだったみんなの似顔絵が添えられていました。

その際、女子についてはいくつかの仲良しグループごとにまとめて描かれていたのでした。

男子についてはグループ分けなどされていませんでした。

考えてみたら、小3まで過ごした東京の小学校でも仲良しグループはあったのでしょうが、当時は男女一緒に遊ぶことも珍しくなく、グループを意識したことはありませんでした。

しかし学年が上がるにつれ、次第に男女別々に遊ぶ機会が増えることから、とりわけ女子の仲良しグループの存在が際立ってくるのでしょう。

席替えや遠足・修学旅行などのグループ分けでも大体はなかよしグループでまとまる傾向があります。

それが単に気の合った仲間同士の付き合いに留まっているうちはいいのですが、極端な場合、クラスの女子を二分する争いに発展するケースもあるようです。

転校生を巡ってその両勢力が自分達の仲間に引き入れようと画策したり、対立するグループの子について口汚く罵り、結果いじめや嫌がらせにつながっていく、そうした事例は良く聞きます。幸か不幸か、私の周りではそこまでエスカレートしたことはありませんでしたが。

確かに、ある程度仲のいいもの同士が群れたがる傾向は男子にもありますが、それがここまでの事態に発展することはめったにないように思います。

私が思うに、これは社会における男女の役割の違いにも依るのでしょう。

男性は、同じ職場で働く人々や取引先の相手など、自分とは好みや価値観が違う人と常に向き合っており、その為に「仲のいい人だけと群れて行動する」ことが脳内にインプットされていないのでしょう。

一方女性は、主婦が集まるサークルや所謂ママ友の集まりでも、自然と気の合う仲間を作る傾向にあり、どうやらそうした行動を取るように脳内にインプットされているのではないか、そう思うのです。

いや、外で働いている女性も、職場内で自然と派閥を作ってしまう傾向があるように感じます。

高齢者が集まる施設でも、おばあちゃんたちは自然と仲間を作る傾向があるといいます。

母や妻を見ていても、そもそも同じ血を分けた姉妹であっても気の合う合わないがあり、女として生まれた以上、きっと群れることからは逃れられない宿命なのかもしれません。


吉備の都でパリ気分(2008.07.22)

2008年7月18日から20日まで、妻の実家への帰省を兼ねて岡山にいました。

今回帰省したのには、実は目的があったのです。

それは、18日夜に行われた岡山パリ祭を観る為でした。

パリ祭とは本来、7月14日のフランス革命記念日の日本における別名ですが、実はその日に合わせてシャンソンのコンサートが行われており、これもパリ祭と呼んでいます。

その始まりは1963年、発案者は日本におけるシャンソンの第一人者・石井好子さんで、東京の日比谷公会堂が第一回の会場でした。

以来、回を重ねて46回、現在では全国を巡回する一大イベントとなっています。

東京のほか、沼津(静岡)・名古屋・神戸・岡山・瀬戸田(広島)の各地を巡回するのですが、このうち岡山での開催に尽力してきたのが、石井さんを東京の母として慕うなど個人的に親しかった木原ミミ光知子さんでした。

1991年のことです。

木原さんが、普段からお世話になっている石井さんのご恩に報いようと、自らの故郷である岡山でのパリ祭開催を提案、実行に移したのでした。彼女は、司会のみならず歌も披露し、地元の観客から喝采を受けたそうです。

しかし、2007年のコンサートが彼女にとって最後のパリ祭となってしまいました。

木原さんはその年の10月に不帰の人となられたのです。

だから今回は木原さんを偲ぶべく、会場ロビーには彼女が実際に着ていたステージ衣装と、等身大の写真パネルが展示されていました。きっと今回も、会場のどこかで見守っていたに違いありません。

今回木原さんに代わって司会を務めたのは前田マックロードママ美波里さん、そしてスイマーから役者に転じた藤本隆宏氏でした。 ほかにも、菅原ハンバーグ洋一氏など木原さんとも親しかった人物が大勢出演していましたが、中でも特筆すべきは谷村チンペイ新司氏です。

彼のパリ祭出演は岡山会場のみでした。

しかもご多忙の中駆けつけたのでしょう、ご自分の出番が終わると同時に東京に帰られたそうです。

 
実は私の義姉・原洋子も、8年ぶりに岡山パリ祭のステージに立ったのでした。2曲ほど披露していたのですが、長いブランクを感じさせない堂々とした歌いぶりでした。

写真はそのときのパンフレットです。


真夏のシャンソンショー (2008.07.23)

上記記事の続きです。

パリ祭の構成自体は、どこの会場でも殆んど変わりません。ただ、会場によって出演者が若干異なる為、中で歌われる曲目にも若干の変化があります。

岡山会場で歌われた歌については、少々見づらいかもしれませんが、写真に示したパンフレットに詳しく出ています。

 
第一部は「パリッ子気分で」と題し、まずパリを描いた歌の数々が歌われます。

それに続いて、いよいよ岡山だけのスペシャルゲスト・谷村新司氏の登場です。

故・木原光知子さんとは特に親しかったご縁で、わざわざ岡山だけの出演となったのですが、実際彼の歌にはどこかシャンソンに通じるものが感じられます。「帰らざる日々」や「忘れていいの」などは正にシャンソンだ、と思います。

ただ今回はそうした歌ではなく、よく知られた「いい日旅立ち」「昴」などを披露していました。

続いて、ベルギーに生まれフランスで活躍したシンガーソングライター、ジャック・ブレル(1929〜78)の作品が並びます。今年(2008)は丁度没後30年になりますね。

彼の作品を集めたミュージカル「ジャック・ブレルは今日もパリに生きて歌っている」はオフブロードウェーでロングラン上演され好評を博したのですが、その日本公演の際に出演した一人が今回司会を務めた前田美波里さんでした。

第二部は「お祭り気分で」と題し、映画「巴里祭」や「シェルブールの雨傘」などを彷彿とさせる構成で、主にミシェル・ルグランの作品が歌われていました。

続いて全会場に御出演のスペシャルゲスト、キム・ヨンジャさんの登場です。

昨年、パリで公演を行った際にフランス語を特訓したとのことで、今回も「黒い鷲」はフランス語での歌唱でした。もう1曲披露した「人生は過ぎ行く(原題・La vie s'enva)」は、いかにも情念の歌手・キムさんらしい仕上がりだったように感じました。

続いて登場は菅原洋一氏。

「私の心はバイオリン」「君に良い旅を(原題・Bon voyage)」の2曲を披露しましたが、外見に似合わぬ(失礼)美声はまだまだ健在ですね。

そしてトリは石井好子さん。

とても85歳とは思えない、かくしゃくとした姿勢が印象的でした。特に最初のほうではマイクを通さずに歌っていたのですが、3階席で聴いていた私のところにもその声はよく通っていました。

 
伴奏を務めたのは、ピアニストで編曲も担当した岩間南平氏(美波里さんとは同郷の上同い年)のグループ、そして日本におけるアコーディオンの第一人者・桑山哲也氏でした。

義姉は一部・二部とも一回ずつの出番でしたが、ベテラン勢にもひけを取らない堂々としたステージを披露していたように思いました。

コンサート終了後、楽屋の後片付けを手伝ったのですが、丁度そこを美波里さんが通りかかりました。

間近で見る美波里さんは、ステージで見るよりも華奢な印象でした。

義姉が今回のために雇った付き人さんは、Tシャツの背中にサインまでしてもらい、大層喜んでいました。

次回はどんなステージになるか、今から楽しみです。  


オリンピックの申し子?(2008.08.09)

(北京オリンピック開幕に寄せて)

世界中から集まったトップアスリート達が自らの身体能力の限界に挑戦する4年に1度のイベントは、私達に様々な感動を与えてくれます。

ところで、私は東京でオリンピックが開催された年に生まれたのですが、だからでしょうか、同い年の人の中には「我こそはオリンピックの申し子」という人も居られるようです。

かつてスピードスケートでメダルを獲得した橋本聖子選手もその一人ですが、実は釧路の小学校の時の同級生にも「聖子(せいこ)」という人がいました。

彼女が生まれたのはその年の7月、丁度聖火リレーが行われていた頃でした。その聖火にあやかって名付けられた、と卒業文集に書いてあったのを覚えています。

とはいえ、橋本さんのように彼女が後にオリンピックで活躍したという話を、少なくとも私は聞いた事がありません。

それで思い出したのですが、その時の同級生には同じ字を書いて「しょうこ」と読ませる人もいました。

彼女の場合は、聖徳太子にあやかっての命名だったそうです。

同じ字を書く名前でも、読み方一つでその由来も随分変わるものだなと感心しました。

あと、クラスは違いましたが、同じ小学校の同級生に「聖也」という人もいました。

彼が騒いだりすると、周りは「こいつ、うるせいや」と思っていたそうですよ。  


障害は不幸じゃない(2008.09.05)

「障害はその人にとって不便ではあっても不幸ではない」

私がそんな思いを強く持つきっかけとなったのが、大学生及び研修医時代にお世話になった下宿屋の大家さんでした。

この大家さんは元々は農家を営んでいましたが、草刈機(だったと思う)に右足を挟まれ、切断を余儀なくされたのでした。

しかし、彼はそんなことではめげませんでした。

義足を作り、それを使うことで、今まで通りに農作業などの作業をこなしているのです。

私がこの大家さんと始めて会ったとき、彼は既に義足生活でした。

しかし、確かに歩きにくそうにはしていたものの、普段はそんな障害を持っていることを感じさせない位、精力的に仕事をこなしていました。下手に「手を貸しましょうか」と声を掛けるのが恥ずかしくなる位でした。

大家さんと出会うまで、私は障害者に対して恥ずかしながら「手を貸してあげなければならない程生活に不自由している人」という漠然としたイメージしか持っていませんでした。

しかし、そのイメージは根底から覆されました。

大家さんは確かに足は不自由だったものの、それ以外は健常者と何ら変わることがなかったのです。

彼と出会って以来、私の障害者に対する見方が前述のように変わったのは言うまでもありません。

 
例年、「24時間テレビ」の中では、様々な障害を背負いながらも懸命に生きる人々が紹介されます。

一方、障害者スポーツの祭典・パラリンピックも毎回オリンピックとセットで行われています。

彼等障害者が我々に感動を与えるのは、決して障害を持っているが故ではありません。

誰であれ、その懸命に頑張る姿が純粋に感動を呼ぶのであって、その人がたまたま障害者であったというだけのことです。

どうしても我が国には、「障害を背負ったことがその人の人生にとって最大の不幸である」という偏った見方しかできない人が多いように思います。

でも、背が高いか低いか、太っているか痩せているか、あるいは顔が丸いか四角いかと同じように、目が見えているかいないか、耳が聞こえるか聞こえないか、あるいは手足が揃っているかいないかの違いと考えれば、障害もひとつの個性と割り切って考えることができます。

障害を持ったことが不幸なのではなく、障害を認めようとしない社会にいることが不幸なのです。


これが食わずにいられるか!(2008.09.19)

何気なしにネットニュースを眺めていたら、こんな記事が目に留まりました。

みなさん、“氷食症”という病気をご存知ですか? なんでも、毎日氷を大量に食べてしまう病気なんだとか。…でも、ジュースの氷をポリポリ食べることくらい、普通にある気が…。氷食症に詳しい『あいあいキッズクリニック』の北島晴夫先生、そんな病気があるんですか?

「その程度なら誰でも食べますし、気にしなくても大丈夫ですよ。ただ、本当の氷食症というのは、無性に氷が食べたくなり、毎日製氷皿1皿くらい食べてしまうんです」

ええっ! 製氷皿1皿って…。確かに異常かも。原因は何なんですか?

「詳しい原因は解明されていないのですが、鉄分が不足し、鉄欠乏症になるとこのような症状が出ます。ほかにも、精神的な症状として起こることもありますが、ほとんどが鉄欠乏症によるものでしょう」

でも、鉄欠乏症と氷に何の関係が??

「鉄分は、体中に酸素を運ぶ役目がありますが、脳の働きを助けるという役目も持っています。なので、鉄分が不足すると、集中できなかったり、記憶力が落ちたりする症状が起こるんです。その症状の一つとして、脳の何らかの働きに異常が起こり、普段絶対に食べないものや、食べ物ではないものを食べたくなってしまうのでは?という説があります。また単純に、鉄欠乏症の人は健康な人に比べて口内の温度が高くなってしまうので、それを冷やすために氷を食べたがるのでは、ともいわれています」

なるほど…。ところで、それだけたくさんの氷を食べるなんて確かに奇妙な症状だとは思いますが、氷を食べ過ぎると何か悪いことがあるんですか?

「まあ、体が冷えたり、お腹を壊したりする程度ですね(笑)。氷食症自体は生死に関わる病気ではないんですよ。ただ、氷食症の人は高い確率で鉄欠乏症を起こしているので、放っておくと重症の貧血になる恐れがあります。ですから、氷を毎日食べたくなるなどの症状が出たら、早めに病院へ行って血液検査をするか、鉄分の錠剤をもらいましょう。1カ月くらい飲めば体内の鉄分が増え、氷食症も治まります。また、女性は生理が原因で鉄分不足になることがほとんどですが、男性で氷食症になっている人は、胃腸から出血して鉄欠乏症を起こしているケースも多いです。その場合、深刻な病気の可能性もあるんですよ」

こ、怖い…。氷食症は、貧血や何かしらの病気のサインだったりもするんですね。みなさんも、氷を妙に食べたくなったら気をつけてくださいね!

(R25ニュースより)

実は私の周りにも、この氷食症の症状を訴えていた人がいたのです。

職場の元同僚なのですが、彼は2006年頃に突然退職したのでした。

私をはじめ他の職員には「入院した」とだけその理由が告げられたのですが、いったい何で入院したかまでは公にはなりませんでした。

そんな彼が今年(2008)になって、週に一回だけ再び勤めに来るようになりました。

ただ彼の行動を見ていて、一つだけ引っ掛かりを覚えていました。

それが、日に何度も氷を口にすることでした。

3か月ほどして彼は新しい職場に移動、私達の職場には来なくなりましたが、それからしばらくして、彼がその新しい職場を2か月で辞めたらしい、という噂を耳にします。

もしかして、その新しい職場で何かトラブルがあったのだろうかと考えているうち、この氷食症のことを思い出したのです。

恐らく彼は、日々氷を口にせずにはいられない強迫観念にさいなまれ、その結果対人関係にも支障を来たしていたのではないか、そう思いました。

そう考えれば、以前入院していた事情も類推できます。

そういえば彼は、私達の職場を辞める直前にも、一種の強迫観念からか、このときは冷たい水を飲まずにはいられない状態だったことを思い出しました。

どうやら彼は、仕事や家庭でのストレスをうまく処理できずに、こうした症状を来たしたものと思われます。

彼は、私のように「無理して完璧を目指さなくていい」と大きく構えることができず、仕事も家庭(子育て)も完璧にこなさなければ気が済まないタイプで、その為にストレスを溜めやすい体質になっていたところがあるようです。

現在彼は新天地で頑張っているとのことですが、やはり何事においても頑張りすぎは考え物だと思います。


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