うみがめ波瀾万丈・成年編��
甲状腺疾患との闘い (2006.11.22)
元々私は、身長163cmに対し体重70kg台と小太り体質でした。 よく食べる割に体を動かすのを好まないところがあって、このような体型になったのです。
しかし、一度だけ急激に痩せた時期がありました。
それが丁度一度目の国試に失敗した1993年の夏頃でした。 周囲から「痩せたね」と言われても、当時食事制限(流石に太り過ぎを警戒して)をしていた私は、そんなものか、と余り気にしていませんでした。
ところがその年の10月、1年余りぶりに親元に帰省(当時親は川崎に住んでいた)したところ、「お前病気でもしたのか」と驚かれました。
無理もありません。この時の体重は45kgまで落ち込んでいたのですから。
早速近くの大きな病院を受診、ここまで急激に痩せる(というよりやつれる)のはきっと何か悪性の疾患に違いない、とのことで腹部超音波や上部消化管内視鏡などの検査を受けましたが、結局異常は見つかりませんでした。では何が原因か?
そのとき、ふと思い出しました。
そういえば最近、今まで以上に汗をかきやすくなった、手が震えるようになった、疲れやすくなった、ちょっとした事でイライラするようになった。しかものどの回りがやけに太い。
これだけ状況証拠が揃っていれば、きっと甲状腺に何か異常があるに違いない、そう確信した私は甲状腺機能検査(血液中のホルモンを調べる)をしてもらうことにしました。
結果は案の定、甲状腺ホルモン値上昇と甲状腺刺激ホルモン値低下を認め、甲状腺機能亢進症(バセドー病)と診断されました。
恐らく、留年が続いた上に国試浪人、それがストレスとなってホルモンバランスの崩れる結果となったのでしょう。
その年の12月から、抗甲状腺薬「メルカゾール」の内服を始めました。いったんは薬の効果が出て体重も60kg台まで回復、徐々に薬を減らしましたが、翌年の6月に再び体重減少(55kg)、甲状腺機能も再度亢進、薬を増やす事となりました。
その後も病状は一進一退を繰り返したことから、一度専門医に診てもらおうと、'95年11月に表参道の伊藤病院(甲状腺治療のエキスパート)を受診します。
やはり内服だけでは十分な効果は得られないとのことで、手術を受けるよう勧められます。
多少迷いはありましたが、この際きちんと治しておこうと手術を決意、実際に行われたのは、検査値が安定し国試も終わった'96年4月のことでした。
甲状腺の4分の3を切除する亜全摘術がなされ、これで治療はひとまず終了となりました。
ただ、これで完治というわけではありませんでした。
今度は眼にキター(2006.12.11)
手術も無事終わり、高知で研修医生活を始めた1996年5月、フォローの為受診した近医で、むしろ術後の機能低下(甲状腺刺激ホルモンは高値だが甲状腺ホルモンは低値)があると言われ、チラーヂンS(ホルモン剤)の内服が開始されました。
その後、甲状腺機能は落ち着いていましたが、1997年4月頃より左眼が充血するようになり、6月下旬には、左眼は完全には閉じない状態であったことに気付きます。
そこで、大学病院の眼科を受診、眼球運動障害と眼筋肥厚を認め、甲状腺眼症と診断されます。
甲状腺から何故眼に来たかというと、私の場合甲状腺を4分の3切除したことで術後機能低下を来しており、甲状腺ホルモンが十分に分泌されません。すると、甲状腺刺激ホルモンを分泌する脳下垂体には、もっとホルモンを出せと言う指令が下ります。しかし、本来のターゲットである甲状腺の機能が低い以上、刺激ホルモンは行き場を失います。その結果刺激ホルモンは、甲状腺と組織構成が似ている眼を動かす筋肉を攻撃します。その結果、筋肉が肥厚し眼球は飛び出し、筋肉の動きは鈍る訳です。
その時は眼軟膏(テラマイシン)とステロイド目薬(リンデロン)などを処方され、様子を見るよう言われます。やがて9月になり、複視が強くなったことから、眼圧を下げる目薬(チモプトール、レスキュラ)が追加されます。しかし翌月、眼圧調整も点眼だけでは無理とのことで、ステロイド内服が必要と言われます。10月末にプレドニンが6錠(30mg)から開始され、効果が現れたことから徐々に減らし、翌年の4月いっぱいでプレドニン内服は終了します。
その後眼科受診は中断していましたが、再び眼の周りが腫れてきたため、'99年1月に再度精査を受けました。
すると、右眼圧上昇と眼筋肥厚を認め、放置すれば眼神経圧迫により失明の危険もあると言われました。
そこで3月に大学病院に入院、ステロイドパルス療法を受けることにしました。
パルス療法とは、1000mgのステロイドの点滴を3日間続け4日間休む、休みの間も30mgのステロイドを内服、それを3週間続けるという治療法です。ステロイドの大量投与による副作用を観察するため入院が必要です。
これにより眼球突出は改善、眼圧も正常化しました。
しかし翌年の9月に、眼筋肥厚は完全には治っていなかったことがわかり、眼圧を下げる目的でアロプリノール(本来は痛風の薬)が始められました。
又この頃から右眼に霞みを覚えるようになりました。ステロイドの副作用による白内障だったのです。
年内はその進行を防ぐ為のカリーユニという点眼薬で様子を見、翌2001年の6月に眼内レンズ置換術を受けました。アロプリノールもこの頃中止されてます。
このように、私と病との関わりは10年以上に及びます。 現在でも、術後のフォローアップの為に内科も眼科も定期的に受診しており、もしかしたら一生この病気と付き合うことになるのかな、とも思いますが、これからも無病息災ならぬ一病息災を心掛けねばと思います。
だから朝に強かったのか! (2007.06.27)
(上記2記事に関連して)
大学病院で定期的に診察を受ける以外にも、実は年に2回の職場検診を受けており、それまではそこで特に異常を指摘された事はありませんでした。
ただ、高血圧の傾向ありとは言われていました。
血圧の基準値は130/85以下で、元々私もそのレベルでした。
ただ、定期検診のときは何故か収縮期圧が140〜150を示す事が多く、「要経過観察」の診断を受けていたのです。
でもその時点では別に気にしていませんでした。
血圧の数値は、緊張したり興奮したりすることで容易に変動しやすく、自分の場合もその範疇に違いないと思っていたのです。
しかし、遂に放置できない状況に陥ります。
定期検診での血圧が170/110、大学病院受診時もそれに近い数値で、担当医から「このまま放置するのは危険だ。降圧薬を始めましょう」と言われたのです。
そういえば、自宅で安静時に測っても170/110、きっとこれはBMI28(基準値22)と肥満傾向にあることで、心血管系に負担をかけているからに違いありません。
「だったらまず痩せろ」と言われそうですが…[:汗:]
いずれにせよ、2007年6月7日にそれまでのチラーヂンに加え、「ノルバスク」という降圧薬が処方されました。これは、製剤名を「ベシル酸アムロジピン」と言って、降圧薬の中でも作用時間が長く、副作用も少ないものです。 1993年にファイザーからこの商品名で、住友製薬(現・大日本住友製薬)からは「アムロジン」の商品名で売り出されました。つまり、この両者は共に先発品扱いです。
ただ、世界的にはノルバスクのシェアが高いのに対し、日本に限ればアムロジンのシェアも結構高く、現に私が今勤めている病院でもアムロジンが採用されています。
似たような名前の歌手がいるからそのほうが覚えやすいのかもしれません。
因みに、アムロジピン製剤を常時服用している人のことを、医者仲間では「アムラー」と呼んでおります。(嘘です)
追記
これだけでは効果不十分として、2008年6月より、オルメサルタン メドキソミル(商品名・オルメテック)という薬が追加されました。これにより血圧は落ち着きつつあります。
儲け話には騙されないぞ!(2007.05.10)
ネット仲間のログを見ていたら、彼が加入しているよそのSNSに「在宅で副収入」だの「興味あればメール送られたし」だのの迷惑な足跡が最近目立つ、とお怒りの記事が出ていました。
これを読んで、そういえば自分自身もこうした儲け話関係の電話をしょっちゅう受けていたな、と思い出しました。
そうした電話は、研修医1年目の頃から来てました。
当初は休日・夜間当直のアルバイトでお世話になっている病院にかかって来ました。
夜警の人から「当直の先生宛てに高知医大の○○さんから電話です」と取り次がれたのですが、「高知医大に○○さんって知り合いいたっけ?」と一瞬疑問に思いました。でも、こちらが忘れているだけかもしれないと思い、念のため出てみると、「税金対策にマンションのオーナーになりませんか」といきなり切り出されました。
つまり、相手は医大関係者を装う不動産屋、取り次ぐ先は医者であれば誰でもよかったのです。
しかし、勤務先に直接電話をかけるやり方は今時通用しません。
そうした臭いのする電話は医師には取り次がない所が増えているのです。
あの頃は、取り次ぐほうもまさかセールスの電話とは思わなかったからこうしたこともよくありました。
勤務先が無理とわかれば次に奴等が狙うのは自宅、今のように個人情報保護がうるさく言われなかった頃は、大学の同窓会名簿も比較的容易に入手できました。しかも、ナンバーディスプレイという機能がなかった頃はこちらが受けるまで誰からの電話かわかりませんから、結局受けてしまう事もしばしばでした。
独身時代のある時、うっかり受けてしまった電話で先方が「うみがめ先生はご在宅でしょうか」と聞いてくるから、この場は父か兄になりきることにして「いません」と答えました。
すると向こうはこちらにも聞こえるように、「何言ってんだ、一人暮らしのくせに」と捨て台詞を吐いたではありませんか!
奴等の正体見たり!所詮はヤクザまがいの連中だったのです。
今は、自宅にかかる見慣れない番号からの電話は極力受けないようにしているのは言うまでもありません。
電話作戦が無理とわかれば、直接会って話をしよう、ということでしょうか、一度勤務先にパンフレットを抱えた業者が来ました。
パンフレットには社名に添えて「東証一部上場企業」の文字、決して怪しい者ではございません、ということでしょう。
一応パンフレットにも目を通しましたが、マンションオーナー権購入費が百数十万円する、と判って、やはり自分にはこうしたハイリスク・ハイリターンの儲け話は向いてない、と思いました。
それに、私は自分の納めた税金が、私達の暮らしにきちんと役立てられているのなら、いくら払っても惜しくないという主義です。節税なんて柄じゃありません。
最近は、前述のような文面のメールも時々送られてきますが、勿論一切相手にしていません。
また、以前利用していたログにもその手の業者のトラックバックがたまに貼られましたが、見つけ次第速攻削除したのは言うまでもありません。
ただほど高いものはない(2007.05.15)
(上記記事に関連して)
そうは言っても、実はもう少しのところで騙されそうになった事も二度ほどあります。
一度は、新聞の折り込みチラシで見かけた絵画展での事です。
チラシには、こう書いてありました。
ご来場の方に、もれなくカレンダー無料進呈
こりゃええわい、ただより安いものはない、そう思った私は、チラシに刷られていた引換券を切り取り、早速会場へ向いました。
会場は、地元新聞社のビルの中にある画廊でした。
入口で引換券を手渡し、カレンダーを受け取った私は、そのまま会場に入りました。
展示されている絵を見ていると、主催者側の関係者でしょうか、一人の女性がにこやかに私に近づきこう言いました。
「どうです、こんな絵が家に飾ってあったらいいなあと思いませんか?」
いや、うちには絵を飾るだけのスペースなどない、と言ってその場を立ち去ろうとすると、その人は更に2枚の絵を差し出し、「では仮に家に飾るとしたら、この2枚のどちらがいいですか」と聞いてきました。
その場は直感で、一方の絵を指差すと、「わかりました。もし正価で買った場合、この絵は○十×万円しますが、仮にローンを組んで下されば、月々わずかな負担で済みます」と言って、代金計算を始めるではありませんか!
これには、それまで穏やかに絵を見ていた私もついかっとなり、こう言い放ちました。
「私はただ絵を見に来ただけ、買うつもりなどありません!」
その女性から笑顔が消えました。
帰りがけによく見たら、「絵画展示即売会」と書いてありました。
つまり彼等は最初から絵を売るのが目的、カレンダーは客寄せの為の道具にすぎなかったのです。
ただ見てるだけの客などお呼びでなかったのです。
この時ほど「ただほど高いものはない」と実感した事はありませんでした。
これ以来、こうした絵画展に足が向かなくなったのは言うまでもありません。
知り合いがダシなんて…(2007.05.16)
(上記記事に関連して)
もう少しのところで騙されそうになったのはそれだけではありません。
それは、前勤めていた病院にいた頃の話です。
ある日病院に、私宛の電話がかかって来ました。
相手は、以前その病院に勤めていた看護職員の女性でした。私が電話に出ると、こう言いました。
「お話したい大事な事があります。○月○日の昼1時半に、ファミレス××まで来て下さい」
実は彼女は、その電話を受けるより数か月前に突然退職していました。
きっと職場での人間関係に悩んでいたに違いない、もしかしたらそのことで私に相談しようと思ったに違いない、そう考えて約束を取り付けました。
当日、待ち合わせ場所のファミレスに行くと、向こうは実は2人連れでした。
きっと彼女は、その後新しい職場に出会い、そこでその連れの女性と仲良くなったに違いない、もしかしたらこれは、この私もその職場に来ないかという引き抜き話かもしれない、そう思いました。
席につくと、連れの人がこう切り出しました。
「貴方は、仕事の上で何か行き詰まりを感じた事はありませんか?」
これに対し私はこう返しました。
「いえ、まあそこそこ上手くやっていると思います」
「そうですか。でも、もし行き詰まった時はどうなさるおつもりですか」
「その時はその時の事だと思っています」
「でも、何か心の拠り所があったほうが安心ではないかと思いますが」
すると、ここで元同僚がこう言いました。
「私も前の職場で色々と人間関係に悩んだ事がありました。しかしそんな時、彼女に勧められた××教が救いとなりました」
連れの人が更に続けました。
「私達××教は、決して高価な経典や壷の類を売りつけるようなことは致しません。ただ、1日5分だけでもお祈りする事で、明るい未来が開けるのです。いかがですか、こうして貴方の元同僚も救われた××教に入りませんか」
そう、実は彼女達は布教のためにわざわざこの私を呼び出したのです。
元同僚をダシに使えば向こうだって断りきれない、そう思っていたのです。
冗談じゃない、誰にも信教の自由がある、人から強引に勧められて入信するなんてまっぴら御免だ、そう言って私はその場を立ち去りました。
本当は、「大事なお話がある」と切り出された時点でひとまず疑うべきだったのでしょうが、なまじ相手が元同僚では、まさか宗教関係の話とは思わないのが人情です。
いや、宗教への勧誘が全くいけないとは思いません。ただ、あくまでも信教の自由を尊重し、決して入信を無理強いしないのが筋です。こんな方法で信者を増やすところはどうせ胡散臭い、と思いました。
私の車遍歴(2006.12.18)
私が運転免許を取得して、20年以上になります。
この間に乗り継いだ車は3台です。
初代はミニカ、それも貨物車扱いの4ナンバー車でした。(一応新車)
当時はまだ学生で、しかも自宅から大学までは実は直線距離で2kmも離れていなかったため、とりあえず動けばよいという父の判断で、最初に乗るなら軽4と決めていたのです。
1987年の1月に購入しました。
国試浪人の間、親元に住んでいた2年半は殆んど乗らず、研修医生活を始めた96年4月の時点ではバッテリー上がりで動かない状態でした。
しかしその後も、ある程度自分の稼ぎに蓄えが出来るまでと思い、そのまま乗り続けました。(無論バッテリーは交換)
買い換えるきっかけは、追突事故でした。
私が起こしたのではなく、あくまでも巻き込まれただけです。
そのため車の後部はつぶれ、走るには支障がないものの、それを修理する事を考えれば買い換えたほうがましと思い、97年12月に中古のマーチに買い換えます。
ただ、購入した自動車販売店の担当者は、ことある毎に「そろそろ新車に買い換えてはどうですか」としつこく迫り、それを断ると今度は保険やら携帯電話やらを売りつけようとし、正直閉口していました。
現在の車は3代目、車種はプラッツです。
結婚の翌年、02年の1月に買い換えました。勿論新車です。
あのしつこいセールスから逃れる為にはその会社以外で購入するしかない、そう思ったのです。
私の父も妻の父も、トヨタ車には長く世話になっており、次に乗るならトヨタ、とは二人で話し合っていました。
丁度この頃、同じマンションに自動車の板金塗装をしている人が住んでいて、その方に紹介された販売店で購入しました。
父がカローラ→パルサー→スプリンターとほぼ同じクラスの車を乗り継いだのに対し、私は軽4(ミニカ)からリッターカー(マーチ)を経て父と同じクラスの車(プラッツ)に行き着いたことになります。
以前「いつかはクラウン」というキャッチコピーをよく耳にしましたが、私としては車にそこまで高望みするつもりはありません。今度買い換える時も、恐らく今の車とほぼ同じクラスで落ち着くのではないかと思います。
FU・JI・TSU(2007.06.10)
以前自宅で使っていたPC(NEC製)は、元は父が使っていたものでした。
購入したのが2002年、かなり使い込んでいたためか、ネットを見ている時によく画面が固まってしまう事があり、少々気になっていました。
そこで2007年6月2日、パソコンショップに行き無料点検を受けることにしました。これにより、原因を調べようと思ったのです。
せいぜい1時間もあれば点検は終わると思っていたら、数時間はかかると言われました。
とはいえ、今更後には退けません。PCを店に預け、一旦帰宅しました。
4時間ほどして、点検が終わったとの連絡を受けました。
結果は、やはり長年使っていた影響でしょうか、ハードディスクの劣化が激しく、それで画面が固まりやすくなっていると言われました。
それだけならいいが、もしかしたらこれ以外にも原因があるかもしれないから、一度メーカーに持ち込み総点検したほうがいい、その為には3週間くらいかかるとも言われました。
その場では「少し考えさせて下さい」とだけ返事し、妻とも相談した上で、今回はその店で出来る範囲の処置だけで済ませる事にしました。
3週間、もしかしたらそれ以上PCの使えない環境に置かれることにはやはり抵抗があったし、何よりコスト面で、メーカー持込にしてしまったら5〜6万はかかってしまい、それだけあれば新品が買えるかもしれません。その点ハードディスク交換だけなら2万程度で出来るから、とりあえずはそれで済まそうと考え、改めて店にはディスク交換及びデータのバックアップを依頼しました。
しかし3日に、、PCショップから再度連絡があり、ディスク交換だけでは修復不可能、よってメーカー持ち込みで基盤交換をしてもらう必要がある、と言われました。修理代は少なく見積もっても5万円程かかり、それなら買い換えたほうがまし、と考えました。
実は、それ以前からそのPCは不具合が続いていました。
無線LANへの接続がうまくいかない、セキュリティソフトに邪魔されてメール送受信が出来なくなる、携帯端末からのデータ読み込みのうち、メールだけがうまくいかない、更に文字入力の途中でカーソルが飛ぶ、そんなこんなのトラブルが重なっていたのです。
それらも、恐らくはPCの経年変化に伴うものだったのでしょう。
そうしたトラブルの解消のためにも、ここは買い換えたほうが得策と考えたのです。
実際に買い替えのため再度店を訪れたのが7日、色々と物色する中で、富士通製のPCが目に留まりました。
その機種は、最新の基本ソフト・ウィンドウズビスタに対応しており、値段も12万円台と比較的手頃でした。
早速売約、基本設定とデータの移し替えは店に依頼しました。 それが仕上がったのが8日、でも実際に使いだしたのは翌9日のことでした。
というのも、8日の夜にはジャズコンサートに出掛けていたからで、そのコンサートとは、偶然にも富士通の協賛事業である"100 gold fingers"という、10人のピアニストを中心とするものでした。
四国では高知のみでの開催でしたが、それだけ耳の肥えた音楽ファンが高知には多いのでしょう。
余談になりますが、「富士」と名のつく会社名は、富士フイルム、富士急行など殆どの場合富士山にあやかって名づけられているのですが、富士通だけはちょっと違います。
もともとこの会社は、古河(ふるかわ)電工とドイツの電機メーカー・シーメンス(現地読みでジーメンス)との合弁企業として設立された富士電機が母体で、その通信機部門が後に分離独立したのが今の富士通というわけです。
ポケベル盛衰記(2008.07.08)
携帯電話が普及する以前、無線通信機による呼び出し手段として一般的だったのはポケットベルでした。
私も一時期持っていました。
いや、正確には持たされていたのですが。
どういうことかと言うと、大学病院のように敷地面積が広い所では、職員(とりわけ医師)の所在がなかなかつかめず、緊急呼び出しの際、その都度全館放送しても確実に本人に届くとは限らないことから、職員に院内用ポケベルを持たせていたのでした。
これなら、呼び出したい本人に確実に伝わるからです。
私自身は大学病院に2年余り勤めていたのですが、患者の容態が急変したり、あるいは外線から電話がかかってきたときなど、結構頻繁に呼び出されたものでした。
また、最初に派遣された関連病院でも、老人保健施設を併設していたこともあって敷地面積も広く、やはり院内ポケベルを持たされました。その後派遣された病院はそれほど広くなかったことから、ポケベルは持たされませんでした。
一方兄が勤務先から持たされていたのは、院外でも使えるポケベルでした。いつ、どこにいる場合でも呼び出せるようにとの配慮でした。
78年に自動車電話及び携帯電話のサービスが始まりましたが、料金が非常に高く、民生用移動体通信の主役はまだまだポケベルでした。
出始めの携帯電話はショルダーバッグサイズで、持ち運ぶだけでも一苦労だったこともありますが。
ポケベルの全盛期は80年代後半から90年代前半、この頃各地に新規参入の業者(それまでは電電公社[:->:]NTTの独占)が登場、販路も拡大されたことから中高生にも広がりを見せました。「ポケベルが鳴らなくて」というテレビドラマ、あるいは同名の主題歌がヒットしたのもこの頃です。
しかし、95年を境に携帯電話の普及が進み、受信してもすぐには返信できない(かけ直す為の電話機を探さなければいけない)ポケベルは急速に廃れ出します。その流れは、Eメールやショートメッセージ機能を搭載した携帯電話の登場(97年)によって決定的となります。
新規参入業者の殆んどはNTTドコモに加入者を譲渡、そのドコモも2004年6月をもって新規契約の受付けを終了、2007年3月をもってポケベルサービスそのものを終えました。
現在、ポケベルサービスは首都圏と沖縄のそれぞれ一部地域で行われるのみで、ユーザーも職業上携帯電話が使えない医療関係者などに限られています。
とはいえ千葉県在住の兄も、現在病院からはPHSの貸与を受けています。確か私が以前勤めていた大学病院でも今はPHSが使われているはずです。
PHSと私 (2008.07.09)
上記記事の続きです。
私が使っている携帯電話は、厳密にはPHS(Personal Handy-phone Systemの略)と言って、所謂携帯とはちょっと違うものです。
日本における携帯電話の利用者は、1995年を境に急激な伸びを見せますが、当時の携帯は今と比べて音も悪く、また基地局設置のコストも高いことから地下街や地下鉄駅では使えないなどの欠点がありました。
また、常に微弱な電波を発することから、医療機器の誤作動を招きやすい病院では使用が制限されている事情もあり(心臓ペースメーカーに対する影響は実はそれほど問題ではない)、そうしたことから私は発する電波がより微弱なPHSを愛用しているのです。
と言えばもっともらしいのですが、PHSにしたのは実はもっと単純なきっかけでした。
仕事をするようになった当初の私にとって、携帯電話の必要性はさほど感じませんでした。
職場の内線電話から外線にも直接発信でき、外出先でも公衆電話を探せば事は足りたからです。
しかし、99年9月から勤め出した職場では、内線電話から直接外線を呼び出すことは出来ず(事務所を通す必要あり)、このままでは外に電話をかけるのに不便だからというのがそもそものきっかけでした。
この頃、ある通販業者からのはがきで「PHS本体価格無料!」なる文字を見つけ、すぐに飛びつきました。
勿論基本料金や通話料金はかかるものの、それも携帯より割安だったことが決め手となりました。
通話エリアが狭いという欠点も、「どうせ山間僻地で使うことなどないのだから」と目をつぶりました。
こうして、その年の9月から利用を始めたのですが、当初は通話機能とショートメッセージ機能のみのシンプルなものでした。
結婚後の2001年、DDIポケット(現・ウィルコム)から「新機種のモニター募集」という通知が届きました。高速度データ通信を活かしたEメールやインターネット接続機能を搭載した物でした。早速応募、これにより機種変更となりました。
2004年8月、そのPHSも寿命が来てしまいました。
そこで後継機として、初めてお金を出して新機種を購入しました。Operaブラウザを搭載しパソコン向けのホームページを閲覧することも可能な物で、しかもカメラ機能も備えています。
今も、その機種を使っています。
また兄は、上記記事でも触れたように現在はプライベート用の携帯と仕事用のPHSを使い分けています。
しかし妻は独身時代も今も、携帯を持っていません。
かつては必要性を感じていなかったそうですが、最近はやはり「あったほうが何かと便利だから」と話しています。
いずれ購入しなければ、とは思うのですが…
(追記)
ジオログにも書いた通り、2009年6月末に妻が使う携帯を購入しました。