うみがめ波瀾万丈・成年編��


前倒しもいいところ!(2008.05.23)

5月23日は私の誕生日ですが、以前3月に前倒しして誕生日祝いの品を頂いたことがあります。

医師国家試験の予備校でのことです。

私が受験した頃の国試は3月中頃実施、4月下旬合格発表でした。

だから、予備校の新年度は6月に始まりました。

その予備校では毎月、その月に誕生日を迎えた人にささやかなプレゼントが贈られていたのですが、4・5月生まれの人には上記のような年間スケジュールの都合もあって、3月に前倒ししてプレゼントが贈られていたのです。

正直、2か月ちょっと前に「お誕生日おめでとう」と言われてもピンと来ません。

因みにこのとき頂いたのは、確かハンカチだったと記憶しています。


これがおいらの生きる道(2006.11.28)

医学生が将来の進路を決めるのは、大体臨床実習で各診療科目を回る過程というのが通り相場です。

お世話になる科が決まれば、次はどこの医局で世話になるかを決めることになります。大学にもよりますが、出身大学にそのまま残る人もいれば、県外出身で地元に帰る人もいます。概ね臨床実習が終わる頃には一般で言う就職活動らしきことを始める人が多くなります。

かくいう私の場合はと言うと、実は臨床実習が終わった時点では、まだ漠然としか決めていませんでした。

自分は手先が器用ではないし、時に長時間に及ぶであろう手術に対する忍耐力も乏しいから外科(及びその系統の科)には向いてない、即断即決が求められる救命救急もマイペースな自分には向いてない、などと消去法で絞り込み、内科系というところまでは絞れましたが、そこで何をやるかまでは決めかねていました。

ただ臨床実習の始まる前の夏休みに、高知県西部・大月町の総合病院を見学させてもらった時、「こんな所で仕事が出来たらいいなあ」と思いました。

患者の多くは地域の高齢者、入院患者の容態が急変することは稀で、通院患者も殆んど職員とは顔なじみ、更に訪問診療(≠往診)も請け負う、そんなのんびりとした空気が流れる所でした。

翌年の夏休みは、ある講師の研究グループが山間の町・香北町(現・香美市)で行っている地域検診を手伝い、このときの経験も「地域の保健室的な病院」での仕事への憧れをより一層強いものにしました。

そうした思いは、現在勤める高知市の西隣(今は高知市に編入)にある春野町の病院で、ある程度叶えられたと思います。医師としての腕はまだまだ未熟な自分でも使ってもらえるだけ有難い、そう思います。  


医学生から研修医へ (2006.12.04)

医学生の卒業後の進路としては、大きく次の3つがあります。

� ―仗搬膤悗琉絛匹砲�世話になる

�◆ー�分の出身地にある大学の医局にお世話になる

�� 研修指定を受けた一般の病院でお世話になる

臨床研修が義務化された現在は、学生側の希望に沿った医局をあてがう「マッチング」と呼ばれる制度が導入され、それが地域及び診療科による医師数の偏在に拍車をかける結果ともなっています。

私の時代には勿論そんな制度はまだありませんでした。

余談ですが、留年経験者に限れば、出身大学への残留率は低いそうです。

学生としては、自分を留年にした大学なんぞに誰が残ってやるもんか、医局としても、落ちこぼれた学生の面倒などとてもうちでは見切れない、それが偽らざる本音だからです。

現に私の兄は、遅ればせながら国試合格を果たして後、出身大学の医局にお世話になろうと挨拶に行ったのですが、断られました。やはり落ちこぼれの面倒は見切れないと判断されたのでしょう。

一方私は、合格後の進路は出身大学の医局しかない、と思っていました。

元々転勤族だったから、親元が自分の地元という意識が希薄だったのです。それに、「自分を留年に…」という考えとは逆に、例え何年かかろうとも不出来な自分を見捨てることなく卒業させてくれた大学に恩を感じていたのです。

ではどの医局にするか?

前にも触れたように、内科系ということまでは決めていたものの、高知医大には内科系の診療科が4つあり、その中のどれにするか迷いました。

その4つとは、

第一内科 消化器疾患を中心に一部アレルギー疾患や膠原病も手掛ける

第二内科 腎臓疾患・内分泌疾患・代謝性疾患を扱う

第三内科 血液疾患・呼吸器疾患を扱う

老年病科 循環器疾患・神経疾患が中心で、所謂老人医療を扱うことは稀

と、扱う臓器別に別れています。

でも、特定臓器のスペシャリストよりも、所謂プライマリ・ケアを請け負う医師を目指していた自分には、どれも帯に短し…といった感じでした。

これも今なら総合診療科というプライマリを請け負う診療科が出来ているのですが、私が入局した10年前にはまだありませんでした。

仕方なしに、前述の4つの中から、一番自分の理想に近い科を選ぶ事になりました。

3内はそもそもスペシャリスト指向の強い科だから却下、老年科は地域検診の手伝いをした時にお世話になった講師の先生がいるからと思ったものの、その先生の専門は神経内科、循環器疾患が専門の医師が医局での主流派だったことから見合わせました。

1内か2内かに絞られましたが、5〜6年当時指導教官だった教授が1内の教授だったこと(その時点では既に退職)、ある先輩から「そちらにいったほうが何かとつぶしが利く」と言われたことから1内に進む事を決意、国試の自己採点で今回は間違いないと判断した1996年の3月下旬、1内に入局の挨拶に行きました。

すると、もろ手を上げて歓迎されました。

というのも、既にその年の新卒者は全て入局先が決まっており、彼等の中で1内を選んだ人はおらず、このままでは教室設置以来の入局者ゼロに終わりかねないピンチだったのです。

まさにこの私がそのピンチを救った形になりました。

しかし、このもたれ合いの関係も案外脆いものだったとは、この時はお互い気付いていませんでした。  


こんなはずでは… (2006.12.06)

自分としては、医師として最低限身につけるべき診察法や、診断に至る考え方を学ぶのが研修医の務めと思っていました。

しかし大学の医局に籍を置いている以上、その医局のスケジュール通りに動く事が最優先されます。

私が入局した消化器内科の教室で行われているのは、腹部超音波や消化管内視鏡を始めとして、腹部血管造影や内視鏡的胆道造影(そこから治療に発展する事も)、肝生検など、およそ基本手技とは程遠い(前2者はともかく)検査が中心でした。

受け持った患者も、肝硬変から肝癌に進行した人をはじめ、ウイルス性肝炎・胆石・膵炎・炎症性腸疾患など偏ったものでした。

例えて言うなら、基本的運転技術をF1レーサーに教わるようなものです。

医局側もその辺は承知の上で、ローテートと言って他の科を3か月づつ回るスケジュールを組んでくれました。

とは言え、派遣された先でも事情は同じです。

老年病科では心臓超音波・心血管造影といった検査(後者は治療に発展する事も)、血液・呼吸器内科でも白血病治療や気管支鏡検査が中心でした。

つまり、大学病院では良く見かける疾患と、世間一般にありふれた疾患とは乖離しているのです。

結局、大学での研修医指導のプログラムは、私が目指していたジェネラリスト(一般的な疾患に対応する医師)よりも、最初から特定分野のスペシャリストを育成するように出来ていた、と思えてきました。

それでも始めのうちは、せめて10年大学に奉公すれば物になるのでは、と思っていました。

しかし、10年大学に奉公すると言う事は、その間に論文の一つもまとめた上で学位を取り、決められた症例をこなした上で認定医資格を取ることを意味していました。

それとわかった時、私は正直選ぶ道を誤ったかも、と思うようになりました。

何故なら、既にここまで来る過程で人より大きく出遅れている。無理して学位や資格を取るよりも、ただの医者で構わないから、せめて患者の気持に立った医療を目指したい、そう思ったからです。

患者にとって良医とは、数多くの学位や資格を取った医者ではなく、自分の病を治してくれる医者、治さないまでも自分の痛みや苦しみを理解してくれる医者のはずです。

つまり、自分は大学の指導プログラムの枠にはそもそもはまらなかったのです。

大学の医局も、そんな私を持て余し気味になっていました。


修行のつもりが…(2006.12.08)

2年間の大学での初期研修が終わると、今度は市中病院に出向き後期研修に臨むことになります。

どこの医局でも、かつてその医局にいた医師が勤める病院や、そこの院長が教授と個人的に親しい病院を関連病院に指定して、そこに若い医師を派遣するシステムになっています。

その後期研修をどこでするかは、ある程度研修医本人の希望も入れられるのですが、私は別に自分を受け入れてくれるところならどこでも、という考えでした。

しかしその考えは、どうやら甘かったようです。

3年目の研修先は、高知県東部・芸西村にある病院でした。(1998年6月から1年間在籍)

海沿いを走る国道から少し山のほうに入ったところにある病院です。病院からは海も山も見えました。

そこで私が期待したのは、学生時代に見学に訪れた病院のようなのんびりした雰囲気でした。

しかしそこは急性期の入院患者も多く、また併設する老人保健施設の入所者も時に急変する、想像以上に慌しい現場でした。

自分以外に6人いた常勤医も、内科医は1人だけ、あとは皆精神科医でした。

無理もありません。元々は精神病院として開院したところでしたから。

確かに教授以下3人の非常勤医が大学から派遣されていましたが、このような環境ではとても私を使いながら育てるという余裕などありませんでした。

結局1年の契約期間が終わると同時に、この病院からはお役御免となりました。

一旦は大学に戻ったものの、専門医指向のない私の居場所などはっきり言ってありません。そこで、3ヵ月後('99年9月)、別な病院への出向を命じられます。

そこは高知市の中心部に近いところにある病院で、当時の医局長が週1回非常勤で来ている所でした。

そこでは、初代院長の急逝を受けて、その娘夫婦が診療に当たっていました。共に私より3つ年下でした。

その為でしょうか、ここも私を使いながら育てるという余裕はなく、しかも勤め出してから半年位経った頃からは、私に殆んど仕事らしい仕事が回ってこなくなりました。

恐らく病院の幹部会議で「あいつは使えない」との烙印を押された結果でしょう。

ただ医師の数合わせのためだけに雇われてる病院なんて辞めちゃおう、何度そう思ったかわかりません。でもその度に、辞めたところでこんな自分を進んで雇ってくれる病院が他にあるか、とどうしても弱気になっていました。

このようにして、私はその病院で3年3月の間飼い殺しにされたのでした。


今の職場に出会うまで (2006.12.15)

勤め先から飼い殺しに遭っている、とは他人にはなかなか言い出しにくいものがあります。

実は親にも職場で行き詰まっている旨相談した事があります。しかし親は、「努力すれば必ず報われる時が来る。いいから頑張れ」と言うだけでした。

でも、世の中成しても成らぬときだってあるのです。

その病院に勤めている頃に結婚しましたが、これが人生を変える大きな転機となりました。

妻は、私が職場で冷遇されていることを鋭く察知して、「そんな病院辞めちゃいなさいよ」と繰り返すようになりました。

しかし、大学の医局に人事権を握られている以上、勝手に辞めるわけにはいきません。その意味でも飼い殺し状態でした。

そろそろ勤め先を変わりたいと医局長に相談しても、「お前を受け入れてくれる病院などない」と言われれば黙って引き下がるしかありません。

途方に暮れていた私の元に、1通のダイレクトメールが届きました。

医師の転職を斡旋する業者からのものでした。

暗闇の中に一筋の明かりを見たような気がしました。

早速その業者と連絡をとり、いい職場があったら紹介するよう約束を取り付けます。

それから何週間かして、先方から返事が来ました。

こちらが求める地域の保健室的な病院があった、しかも今までの職場より高報酬だというのです。

早速見学させてもらい、病院関係者の話も伺いました。

その病院は、高知市内でも市街地から離れた桂浜の近くにある病院で、今勤める春野町の病院とは同じ法人が経営していました。

ここの理事長(96年5月に93歳で死去)は、第二次大戦中軍医として従軍、戦場で瀕死の重傷を負うも奇跡的に助かった、という経歴の持ち主で、戦後これからの人生はいわば戦争を生き残ったご褒美のようなものだから、少しでも多くの病める人の役に立ちたい、そう決意して、この地に開業したとのことです。

その理事長先生の掲げた理想にも感銘を受けた私は、「是非ここで働きたい」と返事しました。

私としては、その場で直ちに契約するつもりはなかったのですが、病院側が何を早とちりしたか「早速来年(2002年)の春からお願いしたい」と言ってきて、正直面食らいました。しかし、私が「もう少し待って下さい」と言うと、「わかりました。でも、出来るだけお早い返事を」と言って、数か月の間待ってくれました。

この間に私は、元の病院と大学の医局に話をつけ、02年の11月限りで転職することを決めました。

その桂浜近くの病院も今はありません。 翌2003年の9月に医療法人の組織改革の一環として、同じ法人の中の2つの病院を統合、春野町の病院を残す形になったのです。

と、ここまで色々ありましたが、今の医療法人とのお付き合いも結構長くなりました。  


職場の慰安旅行(2007.10.05)

大概の職場では、職員慰安の為の旅行が計画されますが、皆さんはそれを楽しみにするほうですか、それとも苦痛に感じるほうですか?

私などは純粋にどこかに行けるのが楽しいと思うのですが、世の中には慰安旅行不要論者もいます。

その人に言わせれば、「そもそも旅行と言うものは、気の合った仲間同士や恋人・家族と行くから楽しいのであって、普段から顔を突き合わせている職場関係者と行ったところで楽しさも半減だ。むしろ仕事を引き擦る形になり、苦痛に感じる人もいるだろう」

なるほど、そう言われればそうかもしれません。

でもそんなことを言っていたら、修学旅行も成り立ちません。あれも、普段から顔を突き合わせている同級生と行く訳で、人によっては楽しくないと感じるかもしれません。でも、これも教育の一環だから、「自分は行きたくない」と駄々をこねる訳にはいきません。

慰安旅行も、職員同士の親睦を深めるという趣旨を考えれば、やはり必要なものではないかと思います。

で、私の場合は大学の医局にいた時に出掛けたから、正確には医局旅行になります。

一年目は、予算の関係からか、近場で済ませました。四万十川の源流域にある一の又渓谷温泉で1泊、翌日は同じ大正町(現・四万十町)にある酒造会社「無手無冠(むてむか)」を見学しました。

二年目は岡山に遠征、その年に開園したばかりの倉敷チボリ公園を訪ね、美作三湯のひとつ・湯郷温泉で1泊しました。翌日は湯郷からも近い岡山農業公園・ドイツの森とサッポロビール岡山ワイナリー(共に今の赤磐市にある)を見学し、帰高しました。

消化器内科の教授は、過量飲酒で肝臓や膵臓を壊した患者を大勢診ているにも拘らず、自らは酒好きで、その為に毎年お酒の工場を見学するコース設定にしているのです。

二年目の年はローテートで他科を回ったのですが、その派遣先の循環器内科でも医局旅行に行っているのです。

つまりその年は医局旅行に2回行く事が出来ました。

八幡浜からフェリーで大分県は臼杵に上陸、ここから由布院温泉に向かいここで1泊、翌日は町中を散策して後博多のキャナルシティに移動、福岡から空路帰高しました。

循環器の教授は酒を嗜まず、雰囲気のいい所を好むことから、由布院が目的地に選ばれたのですが、相当予算を使っていたように思います。  


忘年会の思い出・社会人編(2007.12.18)

職場関係の忘年会と言えば、大学の医局にいた頃はビンゴゲームが毎年恒例でした。

早くビンゴに到達した人から高額賞品にありつけるというルールですが、私は入局1年目のときにポータブルCDプレーヤーを当てました。[:ワーイ:]

しかしこれで運が尽きたのでしょうか、翌年以降これを上回る賞品に当たった事はありませんでした。orz

紅茶セットを当てた年などまだいいほうで、大概は末等のスポンサー(製薬会社)のノベリティグッズでした。

「賞品当たらず罰当たる」とは良く言ったものです。[:汗:]

さて、忘年会のお楽しみとして様々な余興を上げる人は多いことでしょう。

大学の医局では、例年その年の新人ドクターとナースが何か余興をするのが慣わしとなっていて、私も1年目の年にやらされました。[:キャー:]

ただその年の新人ドクターは私一人だったことから、5人いた新人ナース主導で出し物を決めました。

と言っても、実際には勤務の関係で当日は参加できないナースが企画立案していました。

彼女曰く、「様々な年齢層の人が集まる宴会で、最近の流行り物をやってもあまり受けないだろう。全ての年齢層に受け入れられそうなのは少し前の流行だ」

そこで、私がスター、あと4人はバックダンサー(スクールメイツ風)の役で西城秀樹の「ヤングマン」を披露することになりました。

会場の受けは結構よかったですよ。

翌年は新人ドクターも7人、しかも女医も多かった事からか、私の時と同じような発想でピンクレディーの「UFO」を披露していました。

その翌年は、男性が多かったせいか、野球拳を披露していましたが、さすがに全て脱いでしまうようなことはありませんでした。

更に翌年は二人羽織を披露していました。

確かに見ている分には笑えますが、これを実際にやるとなったら大変だ、とその時は思いました。

しかしその翌年、まさか自分もそれをやる事になるなんて…

こちらはその時勤めていた病院の忘年会での一こまですが、その病院に勤める医師3名・放射線技師・理学療法士が二人羽織の餌食となったのでした。

見るとやるとでは全然違うことを実感しました。

でも最近は、今勤める病院の忘年会には出席しないことが多くなりました。

当直とかち合ってしまうのもそうですが、やはり職場関係者と会食しても、心から楽しめなくなったのも理由の一つかもしれません。 


続・シカイシャガニクイ(2006.12.26)

歯科医者を憎く思ったのは子供時代だけではありません。大学在学中にもこんなことがありました。

大学に入学した年(1984)の夏休み、ある朝起きた時、突然右の顎関節に痛みを覚え、口が開けにくくなりました。特に何の前触れもありませんでした。

近くの病院で顎関節炎と言われ、確か消炎鎮痛剤を処方されました。

その時はこれで痛みが落ち着き、しばらく再発しませんでした。

しかし、その2年後の夏休みに再発します。それは当時親が赴任していた高松に帰省していた時の事です。

家族で、丸亀では有名な骨付鳥の店に入ったのですが、この時私が注文したのが親鳥、かなり歯ごたえがありました。

もうお解りでしょうが、無理して親鳥を頼んだばっかりにまた顎関節を痛める結果となったのです。

この頃から、痛みよりもむしろ口を開け閉めする度にカチカチ音がするのが気になりだしました。

そこで、その翌年(つまり大学4年のとき)大学病院の歯科口腔外科を受診、顎関節症と診断されます。右の顎関節が何らかの理由で十分動かず、無理に動かそうとするとクリッキング(カチカチ音)が発生する、と言われました。

このような場合、夜寝ている間に悪化しやすいからと、噛み合せ調整の為のマウスピースが作られ、これを主に寝ている間につけるよう言われます。

とはいえ、これは痛みや音を和らげる対症療法にすぎません。関節の動きを障害している原因がわからない限り、こちらとしてはすっきりしません。

その原因診断の為でしょうか、大学ではやたら検査を受けました。X線写真だけでなく、サーモグラフィーもしょっちゅう撮られました。しかし原因を特定するには至りませんでした。

マウスピースも毎晩つけていればそのうち磨耗してしまい、いつの間にかしなくなっていました。

更に国試予備校に行く為、一時高知を離れていたこともあって、大学の歯科への通院も中止となりました。

もうこれは一生の付き合いだなと思っていましたが、あるきっかけでクリッキングがぴたりと止まりました。2000年の11月のことです。

当時勤めていた病院の近所にある歯科医院に虫歯の治療と歯石の除去の為通院していたのですが、そこで撮られたX線写真で意外な事実が判明しました。

右下の親不知が横向きに歯肉に埋まりこんでいて、これが歯と下顎骨を圧迫していたのです。

放置したら歯周病につながるとのことで、歯肉切開の上親不知を抜く手術が施されました。

結果的にこれが顎関節症の根治術となりました。

今はもう、痛みにも音にも悩まされません。


目次へ

HOME