うみがめ波瀾万丈・成年編��


南国土佐を前にして(2006.11.03)

私が初めて高知を訪れたのは小学校から中学校に進学する間の春休み、久々に親の里・香川に帰省したついででした。この時は純粋に観光客として訪れたので、まさか将来ここに住む事になるとは想像だにしていませんでした。

高知医大の受験に臨んだ時も、まだここに住む事になるという実感はわきませんでした。それが、合格電報に続き正式な合格通知が届き、入学手続きをとったことで徐々に実感がわいてきました。

高知での住まい探しは、父が用事で四国に出向いたついでにしてくれました。大学のある近くだが随分と辺鄙なところだ、と聞いて不安になりました。

実際に南国市岡豊(おこう)にあるその住まいを見たときは、父が言った通りの感想しか持てませんでした。

そこは元々農家を営む人が副業として間貸しをしているような所だったのですが、6畳間と台所が個人のスペースで、風呂は共同でした。周りは田圃が広がるばかりで、近くにこれといった商店も飲食店もありませんでした。今でこそ、岡豊界隈には主に学生向けのアパートが立ち並び、コンビニも出来ましたが、私が大学に進学した1984(S59)年当時の高知ではコンビニ自体珍しかったのです。まあ、周囲に遊べる環境がない分勉強するには都合のいい場所でした。

更に、山地が多いのも特徴で、自宅(大学)のある岡豊から高知市内に出るには峠を一つ越えねばなりませんでした。大学進学当時の移動手段は主に自転車でしたが、その峠越えがネックとなって、市内に出るには専らバスを使っていました。

初めての1人暮らしということにはそれほど不安はなかったものの、やはり炊事洗濯等全て自分でこなさねばならないのはきついものがありました。

こうして、私の大学生活は幕を開けていきました。 


成人式の思い出(2008.01.15)

世間的には、1月の第二月曜日が成人式という自治体が多数でしょうが、私にとってはやはり成人式と言えば1月15日のほうがしっくりきます。

私自身にとってのそれは、1985年のその日のことでした。

入学式や卒業式なら一生のうちに何回も経験しますが、成人式は一生一度のことだから是非出席しなければと思い、当時私の住んでいた高知県南国市の式典に参加しました。

はっきり言って居場所がありませんでした。

その町で生まれ育った人ならば、成人式が懐かしい友と再会するいい機会になる所でしょうが、子供の頃は親の仕事の関係であちこち移り住んでいた私にとっては、周りは殆んど知らない人ばかりでした。

だから、再会を喜び合う人々を横目で見ながら、「あんなの自分とは無縁の世界だな」と思いました。

この時の式典は特に大きな混乱もなく終わりました。

いやむしろ、成人としての自覚のない輩が式典の間じゅう騒ぎまくり、来賓から「静かにしろ!」と一喝される傾向はここ数年のことです。私が成人式を迎えた頃は、やはり式典の間は厳粛な空気でしたよ。

 
記念品として、アルバム(台紙のみ)と、生まれてから20年間の世の中の出来事をまとめた小冊子とを頂きましたが、何か物足りない感じがありました。

やはり、自分が成人したという記念になるものを残したかったのです。

そう思っていたら、式典会場に移動採血車が横付けされていて、受付の所に「献血ご協力者に記念写真進呈」と書いてありました。

これを利用しない手はありません。

確かに、記念写真欲しさに献血するというのも不純な動機かもしれません。しかし、人の役に立った上に自分も得する、これこそが理想です。

 
近年、成人式があまり意味をなさなくなっていると言われています。

「冠婚葬祭」の冠とはかつての元服式の時につける冠のことで、即ち今の成人式にあたる言葉です。

ただ、今時は成人式の前後に進学や就職を控えており、そちらの式典のほうが人生にとってのより大きな節目となっている側面は否めません。

大人の仲間入りと言っても、単に19歳から20歳に年を重ねるだけ、特別な感慨も沸かないという意見もごもっともです。

ただ、やはり社会に対してそれなりの責任を果たすと言うけじめの意味からも、成人式の意義はまだまだ大きいと思います。

成人式に出席したことを決して時間の無駄だったなんて思っていません。


これって罪じゃないの!?(2008.02.23)

今になって考えれば、どうしても腑に落ちない経験ってありますよね。

これは私が大学時代に、ある友人のとった行動を腑に落ちないと感じた話です。

その友人がある時私に「ドイツ語の教材テープをダビングしてやろうか」と言いました。

教材テープは一本2500円、二本で5000円、でも当時の私にはさすがに高い買い物でした。

そこで、先に購入した友人が気を利かせてダビングしてやると言ったのです。

勿論私は依頼しました。

数日後、テープが出来上がりました。

私が受け取ろうとすると、その友人は「はい、500円ね」と言いました。

「何だ、金を取るつもりか」と私が言うと、「自分がダビングしてあげたんだ。手間賃くらい取って当然だ」と言うのです。

仕方なしに彼に500円を払ったのですが、後で考えると、どうしても腑に落ちません。

この場合、著作権者にいわば無断でダビングしているわけですから、たとえ少額でも代価を取るということは、この友人は海賊版販売をしたも同然で、著作権法違反の罪に問われるのではないでしょうか?

もし彼がただでテープをくれたとしたら、著作権保護の除外規定である「個人的な使用」の範疇になったと思うのですが、どうでしょう?  


見通しが甘すぎた?(2006.11.10)

大学に進学したからといって、キャンパスライフを思いっきり楽しもうという気にはなれませんでした。

前述した通り、大学の周囲には遊べる環境が殆んどなく、そうでなくても医学部は勉強が大変という噂を聞きつけ、これは遊び呆けている暇はないな、と思ったのです。そのせいか、周囲の学生が合コンに興じていても、自分には関係ないと割り切っていました。

とはいえ、それまでは親の監視もあってか、多少は気合を入れて勉強していたのが、1人暮らしになるとどうしても暮らしにメリハリが利かなくなり、無駄に机に向かう傾向になっていきました。

そのためでしょうか、教養課程(1・2年)の時点から試験の点が足りずに再試験を受けることを繰り返し、基礎医学の課程(3・4年)では、やはり点の足りない一部科目については、夏休みや冬休みの特別補習に出席する羽目になりました。そのあおりを受けたのが、運転免許取得です。

大概の学生は2年の夏休みに取るとのことですが、私の場合は丁度その2年の夏休みに親の転勤が重なり、それどころではなかったことから、3年の夏休みを利用する事にしました。

自分の通っていた大学の夏休みは2か月あり、普通に通っていればこの間に免許取得までこぎつけられるのですが、私の場合、前述の補習授業への出席の為、1週間教習所を休まなくてはなりませんでした。その分を取り戻そうと無理にあせってしまい、夏休みが終わるまでに本免許取得には至りませんでした。しかし、「夏休みが終わるまでに免許を取る」と友人達に豪語した以上、「取れなかった」とは言いにくく、「免許は取ったがすぐに車を買うつもりはない」と言ってごまかしました。意地の悪い友人から「免許見せて!」と言われても「家に置いて来た」と逃げてました。

夏休みの間は親元(当時は高松)の教習所に通っていたのが、その後高知の教習所に変わることになりましたが、このことも友人達には黙ってました。しかし、ある友人が偶然、私が教習所に通っている姿を目撃したことから、全てばれてしまいました。

結局その年の11月に教習所を修了、暮れに本免許取得となりました。このときある友人(前述とは別の人)からこう言われました。

「たとえどんなに時間がかかろうとも、目標に向かって最後まで諦めない姿勢こそ大事だ。夏休みの間に運転免許が取れなかったからといって恥じ入る事はない。自分に都合の悪い隠し事をしてもいずればれる」

そうか、無理に格好つけることなかったんだ、とこのとき気付きました。それまでの私は他人から悪く思われたくない一心から、都合の悪い事は隠したがる癖がありましたが、この一言で、どんな状況でも自分らしく、外面ばかり気にしない、そんな風に考えが変わりました。


リンリン・ランラン・リューネン(2006.11.17)

兄が最初に留年したのは大学4年から5年(医学部は6年制)に上がる手前のことでした。丁度私の大学合格の時期と重なったことから、兄としてもこのことを親や弟に話すのは気が引けると思ったのでしょう、本人の口からその事実を聞かされることはありませんでした。

しかし、隠していてもいずればれるもので、夏休み前頃親に電話した時に聞かされました。

これを聞いて私は「兄と同じ轍だけは踏むまい」と思いました。

しかし、変なところで兄弟は似るものです。

この私も4年から5年に進級する手前で、一部科目の成績がどうしても合格ラインに達せず、不本意ながら留年となりました。

元々私は、短期間に集中して膨大な知識を詰め込むということが苦手です。とりわけ医学部では、各科とも分厚いテキストで、それを隅々まで覚えるのは至難の業です。過去の試験問題も出回ってはいましたが、それを完璧にこなせたから大丈夫と言うわけでもありません。

まあ、何か部活をやっていれば、その先輩から試験のツボを伝授してもらう事も出来たのでしょうが、勉強と部活の二足のわらじは自分には向いてないと考え、それもしていませんでした。

更に、学内試験を一つも落とさずにいる学生の中には、実は不正行為を働いている者もいると聞き、本来曲がった事の嫌いな私は「単位のためなら手段を選ばないなんて自分には出来ない。それなら、点が足りずに不合格になったほうが潔い」と思うようになりました。

まあ、ある意味馬鹿正直だったかもしれません。

留年が決まって流石に落ち込んだ私に指導教官だった教授は、「確かに今は辛いだろうが、十分な知識のないまま進級するよりは、再びじっくり勉強する機会が与えられたんだ。君はその点運が良かったんだ」と声を掛けてくれました。

その言葉にどれだけ勇気付けられたことか!

例え何年かかろうともドロップアウトだけはするまい、とこの時思いました。 


夏のアルバイト(2007.08.11)

大学在学中に二度ほどアルバイトをしたことがあります。

一度は、大学に入学した年の夏休みでのことでした。

かつてお世話になった予備校で、模擬試験の監督を募集していて、それに参加したのでした。

問題集と解答用紙の配布・回収が主な仕事ですが、試験時間中は他の用事をしてはいけない(飲食どころか読書さえ禁止)という決まりがあったのには閉口しました。

「不正行為を見逃さない為」と言われれば従うしかありませんが、実際にそれらしい行為がない限り、はっきり言って暇を持て余していました。

もう一度は、大学九年目の夏休みに、ある配送会社でのことでした。

7月から8月にかけてのお中元シーズンに合わせて、荷物を送り先別に仕分けする仕事でしたが、体よりも目を使いました。

荷物自体はベルトコンベアで流れて来るから、思ったほど力作業にはなりません。その代わり、流れて来る荷物に書かれた送り先を瞬時に読み取る眼力が求められるのです。

大学生のアルバイトと言えば、家庭教師が定番ですが、私にはその経験がありません。人に物を教えることが自分には向いてないと考えてのことです。

でも、前述のアルバイトを経験できたことで、仕事の厳しさ、その結果得られた報酬の有難さを身をもって理解できたように思います。  


間違って当選!?(2008.01.28)

皆さんは年賀はがきのお年玉くじで何を当てたことがありますか?

私は例年、切手シートが当たるのがせいぜいです。orz

まあ、せいぜい70枚程度しか届かないから、この結果は妥当かもしれませんが…

そういえば、年に数百枚は届いていた父も、ことお年玉くじに関しては、切手シートかその上の賞品(レターセット、ふるさと小包…)がせいぜいでしたから、こればかりは運任せなのかもしれません。

 
お年玉くじと言えば、以前こんなことがありました。

今から20年程前のことです。

その年も私の元には数枚の年賀状が届いたのですが、中に一枚だけ、明らかに私宛ではないものが紛れていました。

宛名欄にはこう書いてありました。

高知県南国市○○町 亀山○○様
ここでは伏せましたが、名前の所には私の名(直樹)と字面がよく似た文字が書かれていました。

電話帳で調べたところ、その人物は当時私が住んでいた南国市の同じ集落に実在していました。

恐らく誤配されたのだろうと思い、直ちにポストに再投函しました。

しかし数日後、同じはがきが又私の元に届いたではありませんか!

そうこうしているうち、お年玉くじの抽選日を迎えました。

新聞発表された当選番号と手元のはがきとを見比べた所、なんとその誤配されたはがきが当選していたではありませんか!

私は「得したな」というより「何か悪いことをしたかな」という気持ちが先に立ってしまいました。

そこで近所の郵便局に行き、事情を話しました。

「あの、このはがきなんですが、間違って私の元に届けられていたのですが、当選していました」

「そうですか、でもそれは紛れもなく貴方の元に届いたのですから、当選の権利は貴方にあります。どうか遠慮なく賞品をお受け取り下さい」

こうして私は賞品(確かレターセット)を受け取りましたが、やはり得した気分よりも罪悪感のほうが強かったのを覚えています。

当時南国市に住んでいたもう一人の亀山さん、あの時はごめんなさい。


呼びたい人と呼べる人の狭間で(2007.10.16)

 

私の通っていた大学では毎年10月に学祭が行われているのですが、学祭の呼び物の一つであるコンサートに誰を呼ぶか、学祭実行委員は毎年苦慮していました。

スケジュール調整の為、遅くとも4月には誰を呼ぶか決めておかなければならないのです。

ここで、私の在学中にコンサートに呼ばれたミュージシャンにはどんな人がいたか振り返ります。

1984 杉真理(すぎ・まさみち)

1985 スターダスト・レビュー

1986 (中止)

1987 谷山浩子

1988 西村知美

1989 嘉門達夫

1990 辛島美登里

1991 (なし)

1992 清水ミチコ

84年と85年はそこそこの知名度のミュージシャンが呼ばれたのですが、結局赤字が出たといいます。

やはり、高知のような地方では誰でも知ってる大物か、誰も知らない新人を呼ばない限り儲けにはつながらないのでしょう。

86年が中止となっているのは間に入ったプロモーターが倒産してしまったからで、この年に呼ぶはずだった西村さんはその2年後に来ていることから、実行委員としてはリベンジに成功したことになります。

谷山さんのときは私も実際に観覧したのですが、客層が意外に広かったのには驚きました。やはり、「みんなのうた」や胃薬のCM曲を手掛けていた事で、中高年層にも知名度があったのでしょう。

当時彼女は収容人数が100〜300人程度の電気と屋根がある場所ならどこでもというコンセプトにより、一般の個人・団体が主催者となる「101人コンサート」を全国各地で行っており、そのスタッフが安いギャラでも構わないからと請け負ったことがコンサート実現につながった、と当時の実行委員から聞いた事があります。

あと特筆すべきは90年の辛島さんでしょう。

出演交渉をした時点でははっきり言って無名でした。しかし、このコンサートの直後に出した「サイレント・イブ」で大ブレイク、先物買いが吉と出た結果となりました。

似たようなケースでは、メジャーデビューの直後に出演交渉成立、その後大化けしたキロロ(98年)があります。

91年がなしとなっているのは、講演ゲストに若松親方(元朝潮、現高砂親方)を呼んだ関係で、コンサートにまで予算が回らなかった為と思われます。

その講演も、84年から86年は内輪の人(大学教授)に留まっていましたが、87年には映画監督の野村芳太郎氏を呼ぶ事に成功、「砂の器」「天城越え」といった代表作の上映も併せて行われました。

しかし、私の在学中に著名人が呼ばれたのはこの2回だけで、88年には高知放送顧問で、後に坂本龍馬記念館長となった小椋克己氏、89年には元競輪選手で、重度心身障害児施設「土佐希望の家」理事長の山崎勲氏と、何れも地元の人が招かれました。

90年と92年は逆に講演まで予算が回らなかったのでしょう、なしとなっています。

2003年に高知医大が高知大に統合されて後も、医学部独自の学祭は続けられていますが、これをきっかけにコンサートも講演もなくなり、今は大手芸能プロダクションとのタイアップによるお笑いライブが行われています。嘉門さんや清水さんのような、音楽に笑いの要素を取り入れたコンサートが受け入れられた事から、学祭でお笑いライブという試みもすんなり受け入れられたのでしょう。

因みに2007年は、ロザン、笑い飯、海原やすよ・ともこ、Bコース、そして「右から左に受け流す」のギャグで知られる勝山梶が出演しました。

これだけの若手成長株が高知の学祭に集結するのも、きっとプロダクションの力あってこそでしょう。


みなくる、みなかぜ(2007.10.17)

申し遅れましたが、高知医大(現・高知大医学部)の学祭には、「南風(みなかぜ)祭」という通称があります。土佐の海に、優しくも力強く吹き寄せる南風に学生の医師への志を象徴させたネーミングだそうです。

大学祭といえば、文化系クラブにとっては日頃の活動の成果を発表する場、運動系クラブにとっては各種模擬店で祭りを盛り上げるという使命を背負ったイベントですが、それでは私のような特に部活動をしていなかった学生はただのお客さんか、というとそうではありません。

そもそも学祭は、臨床実習で忙しい5年生と、国家試験を控えその準備に忙しい6年生を除くほぼ全ての学生が何らかの形で参加するようになっており、特に部活動をしていない学生も、各学年が独自に企画する医学展に協力することで、自分も学祭を支えているという自覚が沸いてくるのです。

私も、その医学展に協力しました。さすがに留年してからは完全にお客さん状態でしたが。

2年生の時は「人間とアルコール」というテーマで、アルコール飲料が人間と人間関係にどのような影響をもたらすかを考察しました。

4年生の時は1年・3年との共同企画で「女と男」(女を先にしたのには特に深い意味はありません)というテーマでした。性差について1年は心理学、3年は生理学、そして4年は病理学の立場から考察を加えるというものでした。男性が女性よりも多く生まれて多く死ぬのはどういった要因によるものか、その疑問に答える形での展示だったように記憶しています。

この医学展は、いわば医学部の学祭の良心とも言うべき展示で、それだけに皆下調べから原稿書きまで入念に行っていました。

特に実行委員も兼ねている人は、学祭の1週間前からほぼ徹夜で準備に明け暮れる状態だったそうです。


どこぞも同じ?ステージ企画(2007.10.18)

「ミス・ラサール?」(「うみがめ波瀾万丈・少年編」参照)の関連記事

最大の呼び物と言えばやはり「ミス・ラサール・コンテスト」ではなかったかと思います。

「男子校なのにミスコン?」

その疑問、ごもっともです。

その実態は「女装コンテスト」です。

(中略)

ステージ企画と言えば、「ラブアタック」「フィーリングカップル」といったお見合い企画も毎年恒例でした。

しかし、似たような企画はどこでもやっているもので、高知医大の南風祭でも、1日目の夜に学生食堂を会場に女装コンテストが行われていました。

各クラブから代表が送り込まれるのですが、一時期は下ネタに走りすぎ、顰蹙を買った事もありました。

そこで、事前にネタをチェックし、あまり下品にならない程度に押えられるようになりましたが、それでも怪しい性倒錯の世界という基本線は変わりませんでした。

とはいえ、これ以降の女装コンはむしろ「欽ちゃんの仮装大賞」のようなノリになったような感じがあります。ある年の優勝チームの出し物は「シンクロナイズドスイミング」でしたから…

お見合い企画といえば、この時代には「ねるとん」が主流となっていましたが、これも医大では独自ルールで行われていました。

名付けて「ねるとん捕鯨団」。

男性参加者は各クラブから送り込まれた精鋭たち、彼等が会場に集まった女性の中から制限時間内にお気に入りの一人を選び(これが「捕鯨」と呼ばれる所以か)、ステージに上げて告白するのです。

「ちょっと待った」のコールは飛び入りでかかります。だから、せっかくお気に入りの女性を探しても、それを横取りされる可能性もあります。

あと、ステージ企画の呼び物といえば「ミスコンテスト」でしょうか。

女装コンテストとは表裏一体となっていますが、かつては一般公募で行われていました。学内から選ぶには女子学生の絶対数が少なすぎたのです。

初回となった84年には、優勝商品は東京ディズニーランドへのペア招待券、ゲスト審査員には高知の漫画家・青柳裕介氏(故人)とアナウンサー・横山和正氏を招くなどかなり予算を弾んだようでした。

しかし、ミスコンに対する風当たりが強くなった91年には中止、翌92年にはそれに代わるものとして「ミスター医大コンテスト」が行われました。

学生の半分は女子という時代になった90年代後半には、学生対象という形でミスコンが復活しました。

しかしそうしたステージ企画も今は昔のようです。 これも時代の流れでしょうか…


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